監督のお薦め 2

●監督のお薦め 2

監督が薦める、読む『地球交響曲』vol.2

 

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『おむすびの祈り』佐藤初女(PHP研究所)
今、<森のイスキア>でこの原稿を書いています。初女さんはさっき急な相談者が弘前の御自宅に来られたというので山を下りて行かれました。<イスキア>に残っているのは私と初女さんの妹の神さん、そして昨夜東京から来た名も知らぬ若い女性とあと仙台から来た二人の中年女性。東京からの女性と神さんが台所でおむすびを結んでいます。台所で交わされているさりげない二人の会話から、その若い女性が少年院の職員であることがわかりました。すると神さんの亡くなった御主人がかつて刑務官ををされていて、今若い女性が勤めている少年院に勤務された事がわかってきます。そんな会話の中で「お米が呼吸できるようにね」といった会話がさりげなく入ってくる。次々に結ばれるおむすびを見ながら、初女さんの留守中にまた一人、21世紀を生きる“初女”さんが誕生しているんだ、ととても感動しました。そのおむすび、初女さんのものに劣らずオイシカッタです。
 

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『スピリチュアル・ウォーカー』ハンク・ウェスルマン(早川書房)
この不思議な体験を誠実な語り口で描いているウェスルマンはれっきとした人類学者。もともと超常現象には全く懐疑的な科学者だった彼が、ハワイの聖地に住むようになってから、自分の世界観が根底から覆るような体験をする。5千年後のハワイに生きるある人物と交霊するのだ。その人物の名がナイノア。5千年後のナイノアは、彼らの伝説の中にある謎の古代文明(それが今の我々の文明なのだが)を確かめるため、ハワイから、海洋航海カヌーに乗ってアメリカ大陸に渡るのだ。ウェスルマンはそのナイノアの身体に入魂し、大洪水のために絶滅した今の我々の文明の跡を旅する。そのでナイノア(ウェスルマン)が赤裸々に体験する5千年後のアメリカ大陸。ウェスルマンはこの体験を、フィクションではなく“現実”として提出している。さらに今のウェスルマンを通して、5千年前のある人物と5千年後のナイノアが“交流”する場面も圧巻である。
 

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『聖なる自然治癒力』上野圭一(浩気社)
病を癒すのは医者や薬ではなく、全ての生命の中に秘められている“自然治癒力”であり、外部から加えられるいわゆる治療(医者・薬も含めた)は本来、それぞれの生命が持つ“自然治癒力”が活発に働けるのを助けるためのみなされるべきものである。この、生命の摂理・自然の摂理に合った考え方が、今の医療の世界では無視されがちです。アンドリュー・ワイル博士の名著『人はなぜ治るか』や『癒す心・治る力』の翻訳者でもある上野圭一さんは“自然治癒力”とは何であり、どの様に働くかを、西洋医学的身体観にならされてしまっている私達にもよくわかる語り口で話してくれます。実は『第一番』に登場したダフニー・シェルドリックが足に大怪我をして、リハビリを兼ねて来日した時も、『第二番』のジャック・マイヨールとパートナーのパトリシアが原因不明の不調を訴えた時も、私は、優れた鍼灸師でもある上野さんにお願いをして面倒を見てもらっているのです。
 

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『縄文学への道』小山修三(NHKブックス)
『第三番』で星野道夫と共にしようとしていた旅の最終目的地は、実は青森県の三内丸山遺跡でした。南東アラスカから北極圏、そしてシベリアに住む「ワタリガラスの神話」を持つ人々は全て、5千年~1万年前にアジアから渡って来た共通の祖先を持つのではないか。この道夫の直感と私自身の直感は、三内丸山に5千年前に住んでいた縄文時代の人々もまた、この同じ祖先を持つ人々なのかも知れないということで一致し、旅の最後には一緒に三内丸山を訪れようと約束していたのです。小山修三さんは三内丸山遺跡の発掘責任者・岡田康博さんと共に最も深くこの遺跡に関わってきた方です。六本の巨木建造物跡が発掘された時二人は、これがトーテムポールかも?という想いもあってクイーン・シャーロット島に調査に行きました。その時島に向かう小型機の中で偶然、生前の星野道夫に会っているのです。「懐かしい日本語が聴こえたので声をかけたのです」と道夫は言っていました。
 

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『複雑系の知』田坂広志(講談社)
この本は、パンフレットの(龍村仁が薦める読む『地球交響曲』)の原稿を全て書き終えて、印刷所に回った後に私の元に届きました。読み進む内に、あまりに面白いので急慮印刷所にまで電話をして、すでに推薦していたある一冊の本と取り替えてもらったものです。こんな無理なことをするのは、ある意味で混乱をもたらすので、なるべくやらない方がよいというのが常識ですが、それをやっても良いのだ、という勇気を与えてくれる本です。私が「ガイアシンフォニーの人選は“直感”です」と答えたり、「シナリオはありません。映画を撮って行くプロセスがテーマを決めて行くのです」と答えたりしている事の意味が、見事に“知”的に、わかりやすく解説されています。“奇跡”といわれる『ガイアシンフォニー』の自主上映の拡がり方も、それがチャント“経済的”つじつまが合っていく事も、その意味がわかります。ガイアに関心のある人々全てに未来への勇気を与えてくれます。
 

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『ベロボディアの輪』オルガ・カリティディ(角川書店)
ナゼ今、世界中のあちこちで、同時多発的に5千年~1万年前の霊魂と交流してしまった人々の体験談が次々に出版されるのだろうか。しかも、それを語る人達の多くが、現代の“科学”の世界に身を置く人々である事が面白い。語られる内容は“超”科学的な話であっても、その語り口は極めて冷静で客観的、いかにも科学者らしい説得力を持っている。この本の著者オルガ・カリティディもまた、ロシアの優秀な精神科医であった。その彼女が思いがけない機会からシベリアのアルタイ地方に住むモンゴル系のシャーマンに出会い、そのシャーマンの導きで、シベリアの凍土の中から発掘された古代の女性のミイラと交霊する。そのミイラの腕に施された刺青はエスキモーやアイヌの人々がつい最近まで持っていたものと同じものである。著者カリティディは、その霊魂の教えを得て、現代医学の常識をはるかに超えた癒しの術を身につけてゆくのだ。
 

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『ベーリンジアの記憶』星川淳(幻冬舎)
私たちの中には5千年~1万年を超える時の“記憶”が刻まれており、その“記憶”が私達の無意識的なものの感じ方に深い影響を与えているのではないか、そんな事を考えていた時、この本に出会いました。それは、『第三番』で星野道夫も共にアラスカ先住民の祖先の旅を溯行しようと話し合っていた時でもありました。そんな時、星川淳がすでに、自分自身の中の1万年以上前の“記憶”をよみがえらせて、この本を書いたのです。今から1万年以上前、最後の氷河期が終わろうとする頃、一人のモンゴロイドの少女が、一族の先陣を切ってユーラシア大陸からアメリカ大陸へ旅立つ。この少女が旅の途上で出会う風景、冒険、愛や恐怖が星川自身の“記憶”として甦えり、それを読む私たち自身の“記憶”として甦えってくる。百代前の祖先の魂と、今に生きる私たちの魂は、大宇宙の織りなす壮大な生命の織物の中では、同時に共に、そして永遠に生き続けているのです。
 

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『未来圏からの風』池澤夏樹/垂見健吾(パルコ出版)
この本は、『地球交響曲第二番』を制作中に並行して制作したテレビ番組『未来からの贈りもの』の撮影に同行していただいた池澤夏樹さん、写真家・垂見健吾さんが共同で出版された紀行本です。『第三番』の冒頭で登場する星野道夫へのインタヴューはこの撮影の時に行ったものです。『未来からの贈りもの』の中でも、また『第三番』の中でもカットしたインタヴューの多くが採録されています。『第三番』の出演者として星野道夫に登場してもらおうと決心したのはこの時でした。「アラスカは人間の一生がいかに短いかを教えてくれる土地です。でもそれは悲しいという事ではなく、逆に生きることの喜び、素晴らしさを教えてくれる土地なのです」という彼の言葉は、彼の“死”に導かれ『第三番』が完成した今、ますます“生き続ける言葉”となって響き続けるようです。星野道夫の他にフリーマン・ダイソン、ダライ・ラマ法王も登場します。
 

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『森羅万象の旅』実重重実(地湧社)
科学的な知識によって宇宙の不思議を知り、自然や生命の仕組みに驚き、想像力をふくらませ、それを生命への感謝と喜びにつなげてゆけるのは、多分、人という種だけでしょう。この本は最先端の科学が知り得た宇宙の仕組み、自然界の仕組み、生命の仕組みを、私達ふつうの人々が知りたいと思う視点から、極めてわかりやすく解き明かしてくれます。ある意味ではどんな精神世界の書や科学書よりも深い“心”の書であると言えるかも知れません。現代の地球(ガイア)の危機は科学技術の進歩のスピードに較べて、それを扱う人の“心”の進化がともなっていないために起こっている、とも言えます。「科学の素晴らしさは、一つの事がわかって、百のわからない事がある事に気付くことだ」と言ったのはフリーマン・ダイソンですが、まさにそこに自然科学の素晴らしさがあり、科学の道を通して、生命や自然、宇宙への感謝と畏怖の心が育まれることほど人間らしい道はないかも知れません。
 

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『成功への情熱』稲盛和夫(PHP研究所)
「龍村さん、いい映画をつくってくれてありがとう。ただね、私はこういう映画が経済的に成り立ってゆかないはずはない、と思っています。もし今の映画界の仕組みの中でうまくいかないと言うなら、それは仕組みの方がオカシイのです。だからあなたはこの映画が経済的に成り立ってゆくことを私に納得させて下さい。そうでない限り私は一切お金は出しません。良いことをしてるから余ったお金を上げるというような価値観は私にはありません」。93年4月、『第一番』の京都での上映をご覧になった後、『第二番』の制作への援助を概ね快諾して下さった稲盛さんが、最初のミーティングでおっしゃった言葉です。この言葉を受けた時、私は心の底からこの人を信頼しようと思ったのです。稲盛さんの御顔はダライ・ラマ法王によく似ています。よく冗談に「稲盛さんが頭を剃って法衣をまとい、法王が京セラ会長席に座っておられてもおかしくないですね」と言ったりしました。

 

監督が薦める、聴く『地球交響曲』vol.2

 

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シルヴィア・マクネアー&ダニエル・コビアルカ『ソング・オブ・ヒーリング~愛の歌』(プレム・プロモーション)
「死は黄金に似合う」そう思った時、とても寂しかった。昨年の8月は本当に“死”の季節だった。最初に星野道夫の“死”、そしてフリーマンの撮影中、カナダのブリティッシュ・コロンビアの海で聴いた二つの“死”。陽が傾くにつれて北の海は急激に寒さを増し「早く家に帰らなければ」という想いだけがこみ上げて来るひとときだった。突然、目前の黄金に輝く海に巨大な1頭の雄のオルカが現れ、光の源に向かって悠々と泳ぎ始めた。オルカの吐く息によって黄金は細やかな金粉に砕かれ、空気中に散ってゆく。そんな時、三つ目の“死”の知らせが届いた。例えようもない寂しさだった。この寂しさを引き受けて立つことができたのは、この歌のおかげだったと言ってもいい。シルヴィア・マクネアーの歌う「アンチェインド・メロディー」。コビアルカの演奏で聴くこの歌に乗って宇宙から見た地球もまた、黄金に輝いていた。「死は黄金に似合う」
 

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スラヴァ『アヴェ・マリア』(ビクター・エンターテインメント)
バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」を私は自分の映像作品に何度も何度も使ってきた。特に、『第三番』のラストに使ったスーザン・オズボーンの「アヴェ・マリア」は、『第二番』の2時間10分の中で展開した全てを包み込んでくれる、母なるマリアの愛だったと思う。これに較べて、スラヴァの「アヴェ・マリア」は、ほとんど“狂気”と紙一重のところまで鋭ぎ澄まされたマリアの愛だろう。この曲を使いたいと思ったのはあのフリーマンの眼だった。一人の人間の生命の時間をはるかに超えた宇宙的な時間を見つめている時のフリーマンの眼はまさに“狂気”の眼だ。母なる星<地球(ガイア)>の慈愛の背後に拡がる無限の闇の宇宙、母なる星<地球(ガイア)>の慈愛はまさにその無限の闇の宇宙に支えられて在る。スラヴァの「アヴェ・マリア」はその闇の宇宙から聴えてくる。それは“狂気”なのだろうか、それとも、<地球(ガイア)>をはるかに超えた宇宙のマリアの愛なのだろうか。
 

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白鳥英美子『AMAZING GRACE』(キング・レコード)
『第二番』の制作中に並行してつくっていたテレビ番組「未来からの贈りもの」の<星野道夫篇>のテーマソングが白鳥英美子の「There Is A Ship」だった。フェアバンクスのチェナ川沿いにポンプ・ハウスという名のレストランがあり、私と星野道夫と池澤夏樹の三人はよくここで食事をした。冬が近づいていてチェナ川の川面が少しづつ凍り始めていた。時折氷の塊がゆっくりと川面を流れてゆく。そんな光景を見ながら、星野は、これから半年の間凍りついたまま静寂につつまれる川が、春のある日“ボーン”という大きな音と共にいっせいに動き出す時の感動を話してくれた。97年春、私は同じポンプ・ハウスで、アラスカで発行された新聞の星野道夫追悼特集号を読んだ。そこには道夫の最後の数日間の出来事が赤裸々に描かれていた。川はすでに氷が割れて、解け残った氷の塊が、あの時と同じようにゆっくりと川面を下ってゆく。頭の中に白鳥英美子の歌が響き続けていた。
 

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テリー・オールドフィールド『SPIRIT OF TIBET』(グリーンエナジー)
私はこのCDを2年前、当時静岡県選出の衆議院議員だった牧野聖修さんからプレゼントされていた。牧野さんがダラムサラにダライ・ラマ法王を訪ねられた時のおみやげだったと記憶している。最初に、ヒマラヤの奥地に立った時に感じられるあの、悠久の時の流れを想わせる壮大な音のうねりがあり、その中から尊厳なチベット仏教のマントラが静かに立ち上がってくる。そして、そのマントラに誘われる様に、可憐な子供達の歌声が、まるで、これから生まれ出ずる全ての生命を祝福するかの如く、やさしいメロディーに乗って聴えてくるのだ。初めてこの曲を聴いた時、私はこの子供達の歌声が聴え始めた瞬間、ナゼか涙があふれて止めることができなかった。もちろんその時にはまだ星野道夫の“死”はなかった。『第三番』のオープニングから<星野篇>パート1のビル・フラーが登場するまでの映画の構造は、この曲の音楽的構造をそのまま置き換えたものになっている。
 

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HALKO(桑名晴子)『LOVE LETTER FROM HAWAII』(パナム)
「浜辺の歌」の中には、もう二度と帰ることのない旅に出てゆく者が、残された者に対し、「私のことはダイジョウブだから心配しないであなたはあなた自身の生命を精一杯生きて下さい」と激励し、勇気づける何かがある。私は、『第一番』と並行して作っていたテレビ番組『宇宙からの贈りもの』の中で、太陽系を去ってゆく宇宙船ボイジャーの心に託して、スーザン・オズボーンの「浜辺の歌」を選び、『第二番』では、若くして大病を患い、死線をさまよった佐藤初女さんが“永遠の生命”に出会う場面で鮫島有美子さんのものを選んだ。ナイノアがハワイの聖地ホナウナウで、亡くなった親友のエディ・アイカウのことを語り始めた時、やはり「浜辺の歌」が聴えていた。だから、ハワイアンで歌われた「浜辺の歌」があることを知った時、本当に驚き嬉しかった。桑名晴子さんは、底抜けに明るく聞えるハワイアンのアルバムの中に、どうして一曲だけこの日本の歌を入れたのだろうか。
 

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Kamal『INTO SILENCE』(Oreade Music)
『第三番』の音楽の選曲は、終わってみるとナゼかほとんどが人の歌声だった。それはすべて意図したものではなく、星野道夫の“死”に導かれるままに映画づくりを進めていった時、自然にそうなっていった、としか言いようがない。そんな中でこの曲だけが純粋にシンセサイザーのみによる音楽だった。私にとって音楽は、映像に付け加える様なものではなく、出会うものだ。もっと言えば映画の各パートのディテイルは、最初に、音楽的に存在すると言ってもよい。たとえ具体的にどの曲という事がまだわからなくても、その、まだ見えない“音楽”はすでに奏でられ始めていて、その“音楽”と映像との出会いから生まれる世界は見え始めているのだ。ナイノアの師マウが、オアフ島の夜明けの岸壁に立ち「お前の目にタヒチは見えるか」と訊いた時、すでにこの曲はそこで奏でられ始めていた。私は数ヶ月後の編集室で具体的な曲としてこの音楽を聞いただけなのだ。
 

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セイクリッド・スピリット『セイクリッド・スピリット』(東芝EMI)
このCDこそ『第三番』のためにあらかじめ用意されていたのだ、と思えるものだ。「地球(ガイア)の声が聴こえますか」というあのコピーを下さった藤原ようこさんからずっと以前にプレゼントされていたものだった。クリンギット・インディアンの神話の語り部、ボブ・サムのパートをつなぎ始めた時、久し振りでこのCDを聴いた。以前聴いた時とは全く違って全身が鳥肌立ってくるのを感じた。それはボブ・サムの語る「ワタリガラスの神話」を言葉ではなく、音楽で語っている、と感じた。私は音楽を聴く時、ライナー・ノーツはほとんど見ない。この原稿を書くにあたって改めてライナー・ノーツを見た。そこにはワタリガラスが大洪水のあと初めてこの世に人間を誘い出した時の様子を表す、ビル・リードの有名な彫刻の写真が載っているではないか。ボブ・サムの語る神話もこのCDも、20世紀の体験を経て、21世紀に甦る5千年~1万年前の“記憶”なのだろう。
 

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スーザン・オズボーン『THE PEARL』(ポニ-キャニオン)
星野道夫の突然の“死”の知らせを受け、それまで描いていた『第三番』の構想が一気に闇(光)の中に消えて行った時、逆に非常にクリアーに見えてきたのが、この映画のラストシーンでした。そこで語られるのは星野のエッセイ集「旅をする木」の中の最後の章「わすれな草」であり、白い光の中で風にゆれる小さな一輪のわすれな草であり、そして聴えてくるのはスーザン・オズボーンの「仰げば尊し」であることだけが、ほとんどゆるぎない確信として私の中に見えていました。ただ、そのラストシーンに現実に到達することができるのか、どんな道を通ってそこに至ることができるのかは、全く見えませんでした。それは宇宙の彼方に輝く一つの星の光であり、宇宙の闇の野にひかれた一本の見えない道をたどって、その光の源にやって来るように私を誘っていました。光が見えているのだから、たた旅立てばいい。道は必ず見える。“魂を語ることを怖るるなかれ”
 

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ボーイズ・エアー・クワイア『少年のレクイエム』 (ビクター・エンタテインメント)
無限の彼方へと拡がってゆくベーリンジアの真白な氷原。たった一人でこの未知の氷原の彼方へ旅立ってゆこうとする者の耳に聴えてくる音楽はどんな音楽なのだろうか。その頃、人と動物はまだ同じ言葉をしゃべり、同じ魂を分かち合っていた。水平線から差し込んでくる白夜の光の中で人と熊が出会った時、人と熊は何のためらいもなくその生命・魂を交換することができた。熊が人になるか、人が熊になるか、それはどちらでもよいことだった。この場面の音楽がフォーレのレクイエムだとわかった時、私の手元には古いカセットテープがあるだけだった。それを持って編集室に入った日、この、まだ未発売のCDが届けられた。その中にフォーレのレクイエムがあった。女性の声でもなく、男性のカウンター・テナーでもなく、人生のほんの短いひとときにのみ存在する、ボーイ・ソプラノの歌声。一瞬が永遠であることを伝えることのできる透明感。
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