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02●「リアルな共感呼ぶ古代への幻想」


 ヒトはいつ頃から、自分の”物の感じ方””考え方”が自分固有のものであり、自分がこの世に生を受けて以後に培われたものだ、と思うようになったのだろうか。私にはそれが、ヒトを現代人たらしめた巨大な”錯覚”であるように思えてならない。
 少なくとも私には、例えば、アラスカの大氷原の小高い丘の上に立って、ほおを打つ冷たい風の中にかすかな春の気配を感じる時の、あの言い知れぬ懐かしさが、二十世紀末の今、この日本に生を受けて生きている私の、わずか五十五年の体験から生れているとはとても思えない。さらに、その体感は歴史の教科書を通じて学んだ二千年程度の確かな日本史の知識からもはるかに遠い。
 私(私たち)の中には、五千年から一万年を超える時の”記憶”が刻み込まれているように思えてならない。その”記憶”が今の私の”物の感じ方””考え方”を育んでいる。アラスカの氷原や、ナミブの砂漠を前にした時感じるあの懐かしさは、五千年、一万年前にそこに生きた、現実に今の私の命とつながっているすべてのヒトの”記憶”の甦りなのだ、と思う。私はその”記憶”をたどって映画「地球交響曲」を撮って来たと言ってもいい。第一番、第二番を撮り終え、96年からいよいよ第三番を撮り始めよう、という時、私は必然のように一冊の本に出会った。星川淳著『精霊の橋』(幻冬舎)。
 この本は、アラスカから送られて来た1枚のクリスマスカードに描かれていた絵に導かれるようにアラスカに渡った一人の現代日本人女性の不思議な幻(原)体験、という形をとって書かれている。アメリカンネイティブの人たちの聖なる儀式、スウェットロッヂに参加したこの女性が、ある”夢”をみる。
”夢”というより、極めてリアルな長編の旅物語であり、本の内容の大半がこの物語に費やされる。物語の主人公は、一万四千年ほど前、最後の氷河期が終わる頃、初めてユーラシア大陸に渡った一人のモンゴロイド系の少女。
 まだ女になり切っていないこの少女が、一族の先陣を切って未知の世界へ過酷な旅に出る。今より海面が百メートルも低く、ユーラシア大陸とアメリカ大陸がベーリンジアと呼ばれる氷の陸橋で結ばれていた時代の話である。
 この少女が旅立たなければならなかった動機、旅で出会うベーリンジアの壮絶な風景、冒険、愛や恐怖、歓喜、安らぎ、すべてが単なる"夢”とはとても思えないほどリアルなのだ。作者はあきらかにこの少女の旅の”記憶”を持っている。そしてその”記憶”は私自身の”記憶”ともつながる。
旅の途中少女が観た壮大な天空の音楽、オーロラ。海からはシャチが歌いかけ、森からはオオカミが呼応する。その真っただ中に立つ少女は、自らが星であり、天空の音楽そのものであり、時を超え、場所を超え、種を超えてすべてのいのちとつながって、今この一瞬に共に舞い踊っていることを知る。
 百代前、見知らぬ森の国から大型のカヌーを駆って今の定住地に渡って来た祖先の魂も、百代後に大陸の草原を駈けめぐる子孫の魂も、さらにそれから何百代後に大都会の片隅にヒッソリと生きるひとつの魂も、すべてが大宇宙が織りなすいのちの織物の一部分として共に永遠に生きつづけているのだ。
 この次元では、少女は百代前の予言者とも、現代の女性とも、何の障壁もなく響き合い、励まし合っている。「私はオーロラから舞い下りた地上の星」。 作者星川はこの少女に託し、「私」のいのちにつながるすべてのものへの感謝を歌う。
 95年12月、私は「地球交響曲」第三番の調査を兼ね青森県・三内円山縄文遺跡の前に立った。五千年以上も前にこの地で営まれていた人々の極めて高度な生活文化は、『精霊の橋』に描かれた少女の魂の営みに直結していたであろうし、二十世紀末の今の日本に生きる私たちの”記憶”にもはっきり刻まれている。第三番ではその”記憶”を呼びもどしたい。

1996年1月21日(日)朝日新聞




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