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龍村仁ライブラリー
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エッセイ
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07●“ひとつながり”のいのちとして 〜「地球交響曲」を撮影して〜 |
映像・地球交響曲のお話の一つは、アフリカのケニヤで、密猟者に象牙のために親を殺された子象を育てて野性に帰す活動をしているダフニという女性と、その女性に育てられ現在は野生で生活している三十七才のメスの象エレナのお話です。 象は0才から3才くらいまではミルクが必要ですから、親を殺された子象は人間の手で育てなくてはなりません。けれどもそれ以上は人間と一緒ですと、野生で獲得する知恵をなくしてしまうので、どうしても野性に帰さなくてはいけないのです。象は人間と同じ十五、六才になるまで一人立ちできませんので、大人の象の保護がいります。それでダフニは、子象が三才くらいに育つとエレナに子象を預け、エレナが十六、七才まで面倒を見るのです。 言葉はないのだけれども共通の理解がある、そういう素晴らしい関係が人間と象との間に成立しているのです。 伝わる“心” このエレナを撮影に行きました時に、非常に感動したことがあります。 映画の中で、ダフニさんが「エレナ、エレナ」と呼んでいる場面がありますが、それは撮影のためにお願いしたことで、不思議な事ですがエレナは声を出さなくても来るのです。 ナイロビ(ダフニさんが子象を育てているところ)とツァーボ野生国立公園(エレナが住んでいるところ)の間は四百キロ離れていますけれども、ダフニさんが子象を連れて行くときには、エレナは必ず前もってわかっています。人間には超能力に見えるいわゆるテレパシーのような能力は、動物にとってはごく当たり前ですから、それを使ったコミュニケーションの方法があるのだと思うのです。 私たちは、そんなエレナとダフニさんの出会いを、少し距離をおいて後ろで撮影しておりました。そうしましたら、ダフニさんを抱いていたエレナが、突然こちらに向かってやってきたわけです。 野生の国立公園の中で突然、3bを越えるが象むかって来るのですから、カメラマンも皆、一瞬怖いと思って下がったわけです。けれども私は、こわいという感じも、象だという感じも全然しなくて、ずっと会いたかったあなたにあえて本当に良かったという気持ちでおりました(エレナという象がいることは日本で知っていましたし、エレナについての記録も読んでおりました)。そうしましたら、エレナが私のところにきて、あの鼻で私を抱いてくれ、なでてくれたのです。 これをどう理解してよいかわかりませんが、ある種の“心”、私たちが本当に相手のことを思い、少しも疑わずに、ある“心”で彼らに対応した時、それが確実に伝わるということです。こちらに少しでもこわいという気持ちがあったり、あるいはこれは象だからという感じがありますと、相手もわかりますから、それなりの距離をおきます。こちらが恐怖すれば、その恐怖から生ずる関係になります。 エレナの場合は人間のことを非常に良く知っている象ですから、そんな風に私を抱いてくれたのだと思うのです。 “いのち”を見失った時代 「動物保護」といいますと、「かわいそうだから守らなくてはいけない」という論理が一方で出てきますと、必ずもう一方で、例えば象を例にとりますと、「人間は長い歴史の中で象牙を使った文化を作ってきたのだから、象牙を全く使わなくなるのは不合理だ、それを職業にしている人たちの生活が失われる」という二律背反の議論が起こり、対立が生じ、この二つの見方しかしなくなります。 けれども、象牙の文化を生み出したベースになっている時代と、現代の私たちが象牙のために象を殺すこととの間には、非常に大きな違いがあるのです。最近の密猟者はマシンガンで象を殺します。密猟は不法ですから、見つかれば捕まります。ですからできるだけ短い時間に殺して、できるだけ早く取っていこうと、数十頭もの象を一度に殺せるようなテクノロジーを手に入れているわけです。このマシンガンで一気に殺してしまうことと、ブッシュマンの人たちが一年に何頭かの像を撃ち肉から何から全部使うために費やすものすごいエネルギーそしてそこで得られるものとには、大きな差があるのです。 粗末な槍や一本矢で殺していたときには、“この象からいのちをいただき、その命の移し変えによって私たちは生きています”という非常に深いつながりの中で、象を一頭射止めるという営みがあったわけです。ところがマシンガンを持った密猟者は、象を、単純に象牙を生産する材料としてしか見ていないのです。 象という一つの存在は、全体の自然の生態系に大きな役割を果たしていますし、いろいろな要素を含めて、(“いのち”という非常に大きな要素も含めて)“象”なのですが、マシンガンを持ち、これが象牙の材料だと見ると、“象”という存在の中の象牙という部分でしか象を考えなくなってしまうのです。テクノロジーの進歩の中で、いのちに対する想像力を見失っているのです。 これは樹木についても言えます。たとえばアメリカインディアンの人たちにとっては、木は本当に自分達に教えてくれるものであり、ヒーリング(治療)の材料であり、その他いろいろな要素を含めて“木”と対応しています。ところが、木は紙の材料だということだけで木とかかわった場合には、木を切るという行為一つとっても、紙の材料としての価値があるかないかのレベルでしか木と対応しなくなります。 共に生きる存在として “いのち”の持つ、非常に大きな複雑さの中から、単純に紙の材料や象牙の材料という意識でしかかかわらなくなることによって、人間は平気でいろいろなことができるようになったかわりに、そのことによって大きな“いのち”としての循環の輪をどこかで平気で切り、そうして自分自身にダメージを与えているのです。 象についても、象牙の材料として増えた、減ったというレベルだけで考えるのではなく、人間が象から教わるものは本当にたくさんあるのです。象が持っている知恵や自然に対する象の生き方を知れば知るほど、“象”とは何かを知れば知るほど、象牙のために殺してしまうのはあまりにももったいない、という心が生じてきます。 昔の人はもちろん、ブッシュマンの人たちは、象からいろいろなことを学ぶ方法を知っていました。現代の私たちのライフ・スタイルでは、直接、象から学ぶチャンスは少ないです。けれども英知によって、象という存在が持っている自然との付き合い方や生き方のノウハウを知ることはできるのです。 そうして象を理解したときに、単純に「象がかわいそうだから」ということは全く次元の違う意味での「自然保護」や「地球環境を守る」論理が出て来ると思います。 しかもそれは、テクノロジーの進歩と矛盾することではないのです。なぜなら、科学技術を進歩させてきたのも人間の一つの特徴なのですから。 自然の循環を作る象の英知 京都でワシントン条約会議が開かれ、象牙の保護の問題について解禁するかどうかの議論がされた時でも、増えたか減ったか、数として十分かどうか、という議論しかされませんでした。これでは、全く利害が違うところで両方に確実に言い分が出来てしまうのです。 たとえば、象が増えすぎて自然破壊しているから殺さなくてはならないという論理が平気で出されますが、これもある小さい範囲だけに限って考えると、正当性を持っているのです。ある地域だけに象を閉じ込めて数だけ増やしていけば、象は生きるために当然たくさんのものを食べます。そうしてそこだけ見ると、森林破壊しているように見えます。けれども、実際はそうではないのです。 もし象が、自分の知恵と代々培ってきた英知の全てを含めて、自然のままに動いていれば、象たちは何百マイルという大きなテリトリーを動きながら、自然の循環のすべてを自分で作るのです。たとえば、あるところで森を食べるとします。自由に食べている時の象はとてもデリケートに食べます。樹木をメキメキと倒して、象が通った跡には草木一本残らないという人がいますが、それは閉じ込めているからなのです。非常に厚くて日差しがあたらない森がありますと、ある部分は日差しが地面にあたるような食べ方をします。そうして土壌が変化すると植生が変わります。 したがって同じ森は続きませんが、新たにサバンナや草原に戻り、草原からまた森に再生していくのです。 森がそうして草原に戻っている間に、象は食べた葉の種をお腹の中に入れて、種の「ぬる」をとり、温め、何百マイルか先へ行ってうんことして出すわけです。そうすると発芽の条件がよくて生命力のあるものが生えてくるのです。森が再生するまでに三十年あるいは百年かかるかも知れませんが、そのスケールで象は自然の循環を全部作っているのです。 ところが、食べられた森だけを見ますと、森がだめになったと見えるわけです。 テクノロジーの進歩と自然の調和 人間は、宇宙に行くほどの時代になっているのに、宇宙的な時間で自分の生命を考えることを忘れ、目の前のことしか考えられなくなってきているのです。人間の生命は、六、七十年のサイクルですから、「私」という時間軸だけで考えればそれが“いのち”のサイクルのように思えますが、私たちの生命は延々と何十億年前からつながっている大きな一つの循環の中の一つなのです。 そういう宇宙的なスケールで自分の生命をもう1度考え直した時、目の前の森がつぶされたということを、象が森をつぶしたというレベルで理解するのか、あるいはもっと大きい循環の中で理解しようとするのかの違いがでてくると思います。 私がアフリカの象エレナに会いに行き、エレナからいろいろ教わって来るということも、昔の日本に生きていたら、おそらくできません。航空機があったり科学技術の進歩があるからこそ、できるわけです。けれども、この科学技術の進歩の先でもう1度、古代からの英知や、木や象や自然から教わることが本当にたくさんあるのです。それに気づくことが、地球全体の未来、そして生命自体の未来に非常に深く関わっていると思います。 ただ、私は地球の未来については全く心配しておりません。私たちがどう思うか、悪い方向に思うか良い方向に思うかで言えば、私たちが良い方向に思うことによって、本当に良くしていけるのです。心で思うということは絵空事のように見えますが、とても大きいことなのです。体でも自分の気持ちの持ち方によって変わります。同じように人間の未来も、人間の心の持ち方によって変わるだろうと思いますから、今の悲劇的な状況をきっちりと認識することも必要ですが、大きな意味で言えば、オプティミスティック(楽観的)に考えることによって、私たちの次の世代やその次の世代、未来の生命に対する責任を果たせるのではないかと思います。 合 掌 BackCopyright Jin Tatsumura Office 2005 |