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11●ニコラおばさんの歌声


それは、濃い霧の夜だった。
そして、天空には燦々たる満月。
ブリテイッシュ・コロンビアの沿岸水路では、夏に、海面から数十メートルの高さまでが濃い霧におおわれ、その上は満天の星空、という光景がしばしば見られる。その日もそんな夏の夜だった。
「ジン、起きなさい!やって来たぞ。」小屋の外で、スポング博士の呼ぶ声がした。私たちは飛び起きて彼の研究室に走った。風に乗って流れる霧の冷気が私達の眠気を一気に覚ましてくれる。午前3時。
 スポング博士は、ブリテイッシュ・コロンビアの小さな無人島・ハンソン島に野生のオルカ(シャチ)の研究所を作って住みついた私と同い年の友人。’88年「宇宙船とカヌー」の取材で知り合って以来、毎夏家族で訪れ、御世話になっていた。
 研究室に飛び込むと、壁にかけられたスピーカーから、懐かしいオルカの歌声がかすかに聞こえ始めている。博士は、複雑にいりくんだこの海の水路のあちこちに水中マイクを仕込み、もう20年以上もオルカの歌=コトバの研究を続けているのだ。
「ニコラの一家だ。まだ、数キロ彼方にいるが、確実にこっちに向かっている。この前を通る時には外に出てあいさつしよう。」博士が静かな声で言った。
 オルカは、それぞれの家族で独特の声のパターンを持っている。人間で言えば、家族の名前みたいなものだろうか。そのパターンが複雑な歌声の中に必ず折り込まれているので、オシログラフに録画してみると、誰が、どの一族の出であるかが一目でわかるのだ。しかし、長年オルカと付き合ってきた博士には、声を聞くだけで誰が来るか、がわかるのだ。
「ニコラはもう80歳を越えたオバアチャンなんだ。うんと長生きしてくれるといいね。」
まるで、自分の年老いた母のことでも語るように博士がつぶやいた。
 オルカたちの歌声がますます大きくなってきた。いつもよりずっと賑やかで楽しそうだ。彼らも満月の夜には私たちと同じようについ浮かれてしまうのだろうか。その声を聞いているとこっちまで楽しくなってくる。しかし、私たち人間の声に聞こえている彼らの歌声は、彼らの歌のほんの一部分に過ぎない。彼らは人間の何万倍もの聴覚を持っている。人間の耳には全く聞こえない低周波や高周波を使って互いに交信しているのだ。彼らは“音”によってものを“視る”ことすらできる。
 小さな研究室がオルカの歌声で満ちあふれた時、私たちは研究室を出て海辺の岩に立った。突然の静寂。海面下で歌う彼らの歌声は空中にはほとんど伝わってこない。風が霧を流し、現れた鏡のような黒い海面には一条の金色の月光がゆれている。ニコラの一家がやって来る方向に目を凝らした。岩に打ち寄せる波音以外、物音ひとつしない。
「ニコラ!」博士が叫んだ。
 その声はあたりの島々に反響し、幾重にも重なりながら霧と海の中に溶けていった。ようやく静寂が戻りかけたちょうどその時、突然、ものすごい爆発音が霧の彼方から一気に響き渡った。
 ニコラ一家がいっせいに海面に出て息を吐いたのだ。それは“音”というより、海も霧も森も月光も含めたあたり全ての自然が一気に震えたような、そんな“音”だった。人自然に君臨する巨大な“神の声”にも聞こえたその音は、同時にとても優しく、懐かしかった。それは我々と同じ哺乳類の“生命の息吹”だった。
 その“息吹”が全身を通り抜けていった時、私の体は、一瞬、透明になった。透明になった私の体は、顔も胸も足も、全身が“音”の受信体となった。そして、今は静けさの戻った鏡のような海の底から聞こえてくるニコラたちの歌声に共鳴し、ただ震え続けていた。
 1988年、夏の夜のことだった。



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