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13●「命の移しかえ」


「塔組みは樹のくせ組み、人の心組み」
“生命”への敬虔な心をもって樹と取り組む創造者が教えてくれたこと。


 樹と話ができる人がいる。
 薬師寺の宮大工・西岡常一さんもそのひとりだ。千三百年前の飛鳥時代の工法を守って、薬師寺の五重の塔・西塔の再建に成功した人である。
 西岡さんは口ぐせのように言う。「塔を建てるという営みは“建築”ではなく“命の移しかえ”なんです。」
 薬師寺には、再建された西塔と向き合って、千三百年も前に建てられた東塔が今も美しい姿で立っている。
 実は、地上33.0メートルにもなるこの美しい東塔は、釘も接着剤も一切使わずに組み立てられている。
 しかも、外部からみると左右均衡の美しい姿を保つこの塔を、内部で支えてる1本1本の部材がみな、それぞれ形や大きさが違っている。
 現代建築の“常識”からみると、これは奇跡に近いことなのだ。
 もし我々が現代の“常識”で東塔のような左右均衡のシンメトリーな建物を造るとすれば、必ず、左右の同じ部分を支える部材は、同じ大きさ・同じ形・同じ材質のものを用意するだろう。そうしなければ、左右のバランスがとれず、塔はたちまち崩壊してしまう、と思っている。
 ところが、東塔の場合は1本1本の部材がみな違っている。それでいて、見事なシンメトリーな姿を保ちながら千三百年という歳月を立ち続けているのだ。
 こんな不思議なことができたのも、飛鳥時代の宮大工さんたちが、みな“樹と話ができた”からなのだろう。“樹と話をする”ことは、そんなに難しいことではない、と西岡さんは言う。
 我々現代人は、樹を単なる“モノ”と思っている。樹を自分たちの生活に有用な“材料”と思っている。そこに現代人のどうしようもない“思い上がり”がある。この“思い上がり”が、現代の地球環境破壊をつくり出し、自分自身も含めた地球のすべての生命の危機をもたらしている。
 樹は単なる“モノ”や“材料”ではない。私たち人間と同じように、“心”も“感情”も“意志”も、そして“個性”も持っている生命なのだ。その“心”に触れ、それぞれの“個性”を知った時、初めて塔が組める。「塔組みは樹のくせ組み、人の心組み」西岡さんは塔を建てると言わず、塔を組むと言う。
 例えば、山の南側に植えていた樹には南の方に向かう見えない“力”が内在している。北側の斜面の樹には、その反対方向への“力”がある。樹に内在するその見えない力を見抜き、その“力”をうまく組み合わせることによって、釘など1本も使わなくても、多少の大きさが違っていても、樹は、自分自身の“力”で互いに支えあって、バランスを保ち、さらに年月を経れば経るほど、その関係を緊密にして“ひとつ”になってゆく。だから東塔は千三百年もの間、美しい姿を保ちながら“生き”続けている。
 もし、この樹のくせ(個性)を組み損なうと、塔の内部から破壊が始まり、塔はたちまち崩壊してしまう。西岡さんの“塔を組む”という発想は、人間社会にも、そして地球の全生命の関係にも通じるものだ。
 複雑な構造を持つ社会が全体としてハーモニーを保つためには、部分(個性)はみな、同じ大きさ・形・材質でならればならない、という発想が個々の生命の多様性を殺してきた。しかし、この“塔組み”の発想は、部分(個性)の生命を生かすことこそ、全体の“生命”を生かし続けることだ、ということを教えてくれる。
 西岡さんの発想は、テクノロジーの進歩を否定しているのではない。塔を建てるために樹齢千年の樹を切ることを否定してはいない。
 「樹齢千年の樹を切る限り、そこから生まれた新たな“生命”即ち“塔”は、千年生き続けるものをつくらなければならない。」ということを言っているのだ。
 単に便利な“モノ”をつくるのではなく、その底に“命の移しかえ”という心があった時、テクノロジーの進歩と、地球の環境保護とが両立する道が開けることを教えてくれているのだ。



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