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龍村仁ライブラリー
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エッセイ
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15●地球交響曲(第一番) |
私はこのほど1989年の夏から約2年の歳月をかけて「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」というタイトルの映画を完成させた。この映画は劇映画ではなく、又従来のドキュメンタリー映画とも異なる一風変った映画で、その特徴を表わす適当な日本語がみつからないので、私はこの映画に“スピリチュアル・ドキュメンタリー”という造語を付すことにした。 この「スピリチュアル」という言葉は70年代の後半頃からアメリカのいわゆるニュー・エイジと呼ばれる人々の間でさかんに使われるようになった言葉で、最近日本でも“日本語”として少しずつ浸透し始めている。 私は外来語を軽々に日本語化し、我国古来の言霊を平然と捨ててしまう現代の風潮が好きではないが、ただ古来からの日本語ではどうしても表現しきれない現代の風潮というのも確かにある。例えばこの“スピリチュアル”という言葉は、「霊性」と訳すと多少オカルトがかって気味が悪いし、「聖性」と訳すと今度は妙に有難そうに聞こえて気恥ずかしい。 この言葉の持つ雰囲気をなんとか説明するとすると「二十一世紀を迎えようとする今、科学の進歩がもたらしてくれる恩恵を充分に知り、世界を科学的・唯物的に理解する方法を身につけた上で、なおかつ、その様な方法では捉えきれない何か宇宙的な、あるいは超自然的な見えない力の存在に気づき始めた人々の魂のあり方」とでも言おうか。 「地球交響曲」は、世界の5人の「スピリチュアル」な体験を持つ人々のメッセージをオムニバス風につづった映画である。例えばアメリカの元宇宙飛行士ラッセル・シュワイカート。彼にとってその体験は全く突然にやって来た。1969年3月8日、アポロ9号の乗組員として宇宙に出て5日目のことだった。この日の彼の任務は月面着陸船の外に出て宇宙遊泳しながら外部を点検することだった。この任務を宇宙船内に残ったマクデビッド飛行士が16ミリカメラに納めることになっていた。この日がラスティー(シュワイカートの愛称)にとって生まれて始めての宇宙遊泳だった。重力のない宇宙空間に来てすでに5日目とはいえ、それまで飛行士達は狭い宇宙船の中で連日の激務をこなしていた。ちなみに、この5日目というのもあくまで地球時間での5日目であって、宇宙船の軌道上では実は、1日(24時間)に16回も日の出と日の入りをくりかえす。したがって、宇宙時間で言えば彼はすでに80日間も宇宙空間で過ごしたことにもなる。 宇宙船のハッチを開け、宇宙服に身を固めたラスティーがゆっくりと宇宙空間に浮いた。続いてマクデビッドが出口に姿を現しカメラを構えた。「それじゃあ始めるぞ」ラステイーが声をかけた。「OK」マクデビッドが即座に答えた。彼らにとって時間はこの上なく貴重なものだった。3ヶ月後に予定されている人類初の月面着陸を成功に導くためには、このアポロ9号による宇宙空間での様々なテストが、最後の、そして最も重要なテストだった。そのため宇宙飛行士達のスケジュールはほとんど分刻みで組まれており、彼らは1秒の無駄もなく任務をこなしてゆかなければならなかった。マクデビッドの合図でゆっくりと宇宙船を離れたラスティーの耳に突然鋭い声が飛び込んで来た。「ちょっと待てラスティー、カメラが変だ」さっきまで快調に動いていたマクデビッドのカメラが突然動かなくなった。マクデビッドは必死で何度もシャッターを押す。しかしカメラはビクとも動かない。ついにあきらめた彼は、ラスティーに5分間だけそのまま待つように言い残して修理のため宇宙船の中に姿を消した。 突然の静寂がラスティーに訪れた。地上からの交信も途絶えた。ラスティーは何もすることがなくなった。彼の体は、宇宙船を離れ、宇宙の底知れぬ闇の中にたった1人で浮いている。そして真空の中の完全な静寂。彼はゆっくりとあたりを見回した。眼下には青く美しく輝く地球が拡がっている。その風景は、彼が今までの人生で観たどんなものとも違う信じられない美しさだった。視界をさえぎるものは一切なく、無重力のため上下左右の感覚もなく、宇宙服を着ているという感覚もなく、まるで自分は生まれたままの素裸で、たった1人で宇宙の闇の中に浮いているようなそんな気がした。 その時だった。突然ラスティーの胸の中に、ナニか、言葉では全く言い現すことのできない熱い奔流のようなものが一気に流れ込んできた。考えたのではなく、感じたというのでもなく、ナニか熱いものが彼の体のすみずみまで一気に満ちあふれたのだ。 彼は宇宙服のヘルメットのガラス球の中で、訳もなく大粒の涙を流した。そして彼の心にこんな想いが次々と湧き起こってきた。 「どうして私はここにいるんだ!」 「ナゼこんなことが起こっているんだ!」 「私はいったい誰なんだ!」 これは、いわゆる疑問ではなかった。問いであると同時に答えでもあった。 彼は、この瞬間に眼下に拡がる美しい地球の全ての生命に対して言い知れぬ愛と連帯感を感じていた。 「今ここにいるのは私であって私でなく、全ての、生きとし生ける者としての“我々”なんだ。それも、今この時間に生きている生命だけでなく、この青く輝く惑星地球に、かつて生まれ死んでいった全ての生命、そしてこれから生まれてくるであろう全ての生命を含んだ“我々”なんだ。」 こんな静かな確信が彼の心に生まれていた。彼は、自分の全身が深い深い感謝の想いに満たされているのを感じていた。 この一瞬からラスティーの中で何かが大きく変わった。マサチューセッツ工科大学を最優秀の成績で卒業し、エリート空軍のパイロットとして核戦略爆撃機の機長を務め、また史上最年少で宇宙飛行士に選ばれ、典型的なアメリカンヒーローの道を歩んできた彼の世界観が、この一瞬から大きく変わったのだ。 退役後、彼はソ連(現:ロシア)も含めた世界中の宇宙飛行士に呼びかけ、「国家」という枠を越えて宇宙飛行士達が連帯し、宇宙での体験を世界の全ての人々に語りかける組織ASEをつくった。この組織は世界の宇宙飛行士達の約70%を会員にして今も奉仕活動を続けている。 ラスティーのこのスピリチュアルな体験を生み出した背景には、科学技術の進歩、軍事目的、国家の威信、個人の名誉、といったひとつ間違えば全て生命に壊滅的な破壊をもたらす要素が含まれていた。しかしその要素があったからこそ彼の体は宇宙空間に運ばれ、彼にこのようなスピリチュアルな覚醒をもたらした。この「矛盾」はたぶん、二十一世紀を生きる全ての人々が抱える「矛盾」なのだろう。そして、人という種の未来は、この「矛盾」を避けるのではなく、それを内側から越えてゆく時に開くのだ、と私は思っている。 植物学者の野澤重雄さんは、たった一粒のごく普通のトマトの種から遺伝子操作も特殊な肥料も一切使わず、1万3千個も実の成るトマトの巨木をつくってしまった人である。 普通の土で育つトマトの場合は1本の茎からせいぜい50個も実が成れば良い方だそうだから、1万3千個というのは奇跡のような数である。私は「地球交響曲」の撮影を開始するにあたって野澤さんにお願いして新たに種植えを行い、その成長過程を撮影した。そのトマトはおよそ9ヶ月で幹の直径10センチ、葉の拡がりが直径8メートルを越える巨木に成長し、推定で1万5千個近い実をつけてくれた。 この満開のトマトの姿は、映画のラストシーンを飾るのにふさわしい映像となった。 何故こんな奇跡のようなことが可能なのか。それは野澤さんにとって、ある意味で当然のことであった。野澤さんには若い頃から生命に関する直感のようなものがあった。 「今、私達がみている生命の姿、例えばトマトならトマトの姿は、トマトが自分の置かれている環境条件(地球の自然条件)を自分で感知して、その環境条件に合わせて現れた姿なのであって、決して絶対不変のものではない。生命はもともと無限の可能性を持っているもので、環境が変わればどんな風にも変化し得るものである。」 この生命観をもとに今のトマトの姿を見直してみると、1本の茎から5、60個の実しか作れないのは、トマトが今の地球の自然条件をある“制約”と感じ、その“制約”に合わせて生命のサイクルを自分で選んでいるのだ、とも考えられる。だとすると、その“制約”をできるだけ取り除いてやればトマトは今の姿とは違う無限の生命力を示してくれるに違いない。野澤さんはそう考えた。 そこで野澤さんはトマトの生命力を“制約”しているものが一体何であるかを考えた。そこからが野澤さんの発想のユニークなところだった。現在地球上に生きる植物の大部分は土に根を下ろし、土から水と栄養を吸収して生長している。土は命の母である。地球に生きる限りそれは全く自然なことだ。 しかし、植物は土を母にしているからこそ、土からの“制約”をうけている。もし存分な水と栄養を与えながらトマトを土から離せば、ひとつの“制約”を取りはずすことになるのではないか。こんな発想から野澤さん独特の水気耕栽培法が生れた。野澤さんのトマトは新鮮な水と栄養が常時流れている水槽の中で育つ。細かい技術的なことを述べることはできないが、野澤さんのトマトとの接し方には基本的な哲学がある。 「トマトは自分自身の智恵と意志を持っている。人間がトマトを育てるのではなく、トマトから学び、その成長を見守りサポートするだけでよい。」野澤さんのやり方は、いわば“放任主義”である。もし意図的にやっていることがあるとすれば、成長の一番初期段階、すなわち人間で言えば赤ちゃんか、2〜3歳児の幼児期に充分な水と栄養を与えることぐらいだろう。 これは赤ちゃんトマトに「安心して思い切り成長して行ってだいじょうぶなんだよ」という情報を与えていることと同じことになる。そうするとトマトは安心して成長する方向を定め、グングン勢いを増して成長し始める。すなわち生命力が高まってくる。するとそれに伴って生きていく為に必要なシステムがどんどん効率の良いものになっていく。例えば病気に対する抵抗力が強まるとか光合成の効率がたいへん良くなるとか……だから人間が手助けする必要もどんどん少なくなっていく。トマトに限らず、全ての生命は、我々人間の現在の知識レベルをはるかに越えた高度な知恵あるいは機能を持っている。現代の科学の方法ではまだ捉えることはできなくても、宇宙的な無限の生命力は“実在”するのだ。トマトの巨木はその“実在”の一つの証明になるだろう。 この宇宙的な無限の生命力を“神”なら“神”と呼んでも良い。神とは、“自然の高度なメカニズムの実体”のことなのだから。 そして、この“実在”に対して素直な開かれた心さえ持っていれば誰でもトマトの巨木をつくることができる。宇宙的な生命力に触れる鍵は結局人の心・魂にあるのだと野澤さんは言う。野澤さんは科学的な手順と方法をとりながら、その科学の枠組では捉えきれない“見えない力”の存在を証明しようとした人なのだ。 野澤さんがトマトと話ができる人だとすれば、ダフニー・シェルドリックは象と話ができる人である。ダフニーはアフリカのケニアで過去30年間にわたって象牙の密猟者に親を殺された子象を育て野性に還えす活動を続けてきた人である。 ダフニーには今欠かすことのできないパートナーがいる。彼女が最初に育てた雌の象エレナ。エレナは今33歳になり、すでに野性に還っているが、今もダフニーとの関係を保ち続けている。ダフニーのもとで3〜4歳まで成長した、みなし子達をダフニーから預かり、16、7歳で一人立ちできるようになるまで母親がわりをしてくれるのだ。象は複雑で高度な知能と繊細な心を持った動物である。例えば、その鼻は、地面にいるクモ一匹でも嗅ぎ分けることができるし、地面に残された匂いによって何日も前に起こった出来事を知る事ができる。また人間の耳には聞こえない低周波を使って、何キロも先の仲間と交信もできる。しかし、そうした本能的な能力の他に彼らには、人間と同じように多くの学習が必要なのだ。年長者から、いつ乾期がくるのか、その時どこへ行けば水があるのかなど数多くの知恵を教わり、生きてゆく術を学んでゆく。エレナはそうした知恵をみなし子達に教えるのだ。 私達が撮影に訪れた時、ナイロビにあるダフニーの孤児院には、そろそろエレナのもとに送る年齢に達した子象達が二頭いた。 ある日ダフニーは、エレナのいるツァボ国立公園の草原の下草が充分に育っているかどうかを調べるためツァボに向かった。私達もこの調査に同行した。ツァボは、ナイロビから四百キロも離れている。ダフ二ーの話によれば、エレナはダフニーが来ることをいつも前もって知って必ず会いに来るという。エレナがどんな方法でそれを知るのかは、科学的には説明できない。しかしこの様な、テレパシー能力は野生動物達にとってはごくあたり前の能力であることをダフニーは数多くの体験から確信していた。 草原でのダフニーとエレナの再会は本当に感動的だった。草原のはるか彼方の茂みからまず巨大な象の背中がみえ、しばらくしてエレナの全身が姿を現わした。 エレナはその巨大な体からは想像もできない程の静かな歩みでまっすぐダフニーの方に向かって来た。 「エレナ!」ダフニーも小さく叫んでエレナに向かって歩き始めた。エレナはその巨大な鼻でダフニーの背中を抱き、なでるように上下に何度も動かした。ダフニーは小さな手でエレナの眼の下あたりを何度もやさしく叩いた。これはまさに母と娘の再会の光景だった。二人の間に言葉のやりとりはない。 しかしこの二人の間には、言葉をはるかに超えた愛情と深い信頼があるのがわかった。人間は言葉を持つことによって人になった、と言われている。人はその言葉によって得た知恵の延長戦上に科学技術を生み出した。科学技術の進歩は人を自然の脅威から解放し、生活を豊かで安全なものに変えてくれたように見えた。しかしその豊かさと安全性の代償として人は何か一番大切なものを見失っていた。二十世紀末の今、人はようやく科学技術への盲目的な信仰が惑星地球の全ての生命を破壊に導く危険がある事に気付き始めた。 科学技術の進歩を後戻りさせる事はできない。しかしその科学技術をどのように使い、どの方向に進めるかは結局、人の心・魂のあり方によって決まる。科学技術の進歩に較べて、人の魂の進化が遅れている。このアンバランスが今の地球の危機をつくっている。 二十一世紀を迎えようとする今、最も必要なのは、人の魂の進化なのだろう。シュワイカートのスピリチュアルな体験にもみられるように、科学技術の進歩が人の魂の進化を促している、とも言える。科学技術の進歩によって今まで見えなかった多くのものが見えるようになった。そして人は、その見えた事によって、見えないものが存在する事に気付き始めた。植物の生きる姿から学ぶものが山ほどある。動物の心から学ぶもの、古代の知恵から学ぶもの、そして、全ての生命から学ぶものが無限にある。「地球交響曲」は人の魂のスピリチュアルな進化を願ってつくった映画である。 【伊勢神宮「瑞垣」 1992年新春号】 BackCopyright Jin Tatsumura Office 2005 |