Index
HOME 龍村仁ライブラリー エッセイ
著書  | お薦め vol.1  | お薦め vol.2 エッセイ  

19●『地球交響曲』第四番のために
  水平線上の“タヒチ”をヴィジョンする


「『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』の第四番はいつ頃できるのですか?」と問われることが多くなった。
 そんな時私は、「21世紀の最初の年、2001年中には必ずできるでしょう」と答えている。
 しかし、現実的にはまだなんの保証もない。特に、資金面ではまだ一銭の現金も目の前にある訳ではない。映画は、文学や絵画と違って、作家個人の努力で作品を仕上げてから世に問う、ということができない。発想の最初の段階で何億というお金が動いて初めて、見えるもの・聞こえるものとしての「作品」が成り立つ。発想の初期段階で億単位のお金が動かなければ、“表現”そのものが存在しないことになるのだ。だから“発想”の確かさが常に、社会的に求められる。仕上がりの形がハッキリと見えているシナリオとか、どう 転んでも客が呼べる豪華なキャスト(出演者)とか。ところが、『ガイアシンフォニー』にはそのどちらもない。シナリオは撮影を終え、編集作業も全て終えた後に初めて生まれてくる。キャストだって、クランクインの時に全てが決まっている訳ではないし、その出演者が世界的に有名な人か否かは選択の基準にはない。こんな“先の見えない”作り方をしながら「2001年中には必ずできます」と言うのだから、詐欺師まがいの言動と思われても仕方がないかも知れない。しかし、『ガイアシンフォニー』の第一番から第三番までは、まさにこの作り方で完成し、制作開始から10年目の今、延べ150万人の観客動員を果たしている。日本映画界の「奇跡」と呼ばれる由縁もそこにあるのだろう。私自身も、今の『ガイアシンフォニー』の現実をみるまでは、「こんな映画づくりのやり方が世間に受け入れられてゆくのだろうか?」という不安に苛まれ続けて来た。しかし今は「この『ガイアシンフォニー』の作り方、そして観られ方の中に、21世紀の全ての人の営み(政治・経済・科学・文化)に通じる“示唆”が含まれているのではないか」と思い始めている。
 要するに、“先が見えない”時、人はどうすればよいのか、ということだ。
 いや、“先が見えない”ことこそ、人の営み、生命の営み・自然の営みの本来の姿であり、その事を謙虚に受け入れる事ができた時、逆に“見えない”はずの先が、“見える”形で眼前に現れてくる、ということだ。“先が見えない”ことへの不安は、人類という種が根源的にもっている不安だ。ある意味では、“先が見えない”という事に気付いた事に依って人類は人間(ヒト)になった、と言えるのかも知れない。何万年にも及ぶ人間の文明史は、“見えない先”をなんとか“見える”ものにしようとして来た営みなのだ。我々が今多大な恩恵を受けている科学技術文明の進歩は、人類が獲得した最も有効な“先を見る ”ための手段だった。いや、科学技術の進歩に依って、我々は“先を見る”どころか、“先は自分の力でコントロールできる”と信じるようになった。
 ところが、この“先は自分の力でコントロールできる”と信じたことが、実は巨大な錯覚だったのかも知れない、と気付き始めたのが、20世紀から21世紀に渡ろうとする今の時代なのだ。“先が見えない”ことへの不安は、今、世界の人々のあらゆる営みの背後に渦巻き始めている。一時は、“先が見える”と信じた後に生まれた不安だから、原始的な不安よりははるかに深刻だということもできる。しかし、よく考えてみると“先が見えない”というのは、生命の営み・自然の営みの本来の姿なのだ。無限に多様で、無限に複雑な生命の営みの絡み合いの中から、自ら然ってゆく地球(ガイア=大いなる生命)の未来(先)など、誰にも“見る”ことはできないし、ましてや自分の思い通りに“コントロール”できるはずもない。“先が見えない”という事に多くの人が再び気付き始めたということは、生命の営みとしては、とても健全な状態に立ち戻りつつある、と見てよい。
 護岸工事がなされて“先がよく見える”ようになったまっすぐな人工の川と、曲がりくねっていて“先がよく見えない”自然の川と、どちらが健康なのかは今やもう誰でもが知っている。“先が見えない“ことが生命の本来の姿なのだとすれば、結局人はその不安から逃れられないのだろうか。私はその逆だと思う。
 人間は、“先が見えない”という不安があるからこそ、今、目の前に起こって来た予期せぬ出来事に対して、今自分の持っている全能力を集中して取り組むことができるのではないだろうか。そして、今たまたま偶然のように自分に与えられた役割に、全身全霊をもって取り組んでゆくことだけが、“見えない先”に関わってゆくことのできる唯一の道なのではないだろうか。
 未来(先)はコントロールできるものではないけれども、同時に、きめられているものでもない。未来は、今この一瞬の無限に複雑な生命の営みの中から、自然に創成されてゆくものである。だからこそ、今この一瞬の小さな生命の一つ一つの営みが重要なのだ。その小さな営みの一つ一つが全て、未来の現実に深く関わっているのだ。そして、“先が見えない”時、人間の小さな一つ一つの営みを支えてくれるのが“想像力”だ。“想像力”は多分、人間という種にのみ与えられた特殊な能力だ。その“想像力”が未来に対する“ヴィジョン”生み出す。“ヴィジョン”は見えるものではなく描き出すものだ。多分、人間だけが“見えない先”を、心に描き出すことができる。それが “ヴィジョン”だ。“ヴィジョン“はその現実をこえたいという意志が生み出すものだ。
 『地球交響曲』第三番の出演者ナイノア・トンプソンは、近代航海器具は一切使わず、星や風、波だけを頼りに、ハワイ〜タヒチ間五千キロの海を古代カヌーで渡った人だ。彼は、初航海の直前、ハワイの海岸で、師であるサタワル島の航海師マウから突然こう問われた。
「おまえの目にタヒチは見えるか?」ナイノアはしばらく考えて、こう答えた。「見えます。心の中でタヒチが見えます」すると師はこう言った。「それでよい。その“心の中の島”を見失うな。それを見失った時、おまえは現実の航海で道を失うことになる」
 私にとって今、タヒチは“『地球交響曲』第四番”だ。資金面でも、出演者の面でもまだ確かな“先”は見えない。しかし、「21世紀を生きる子供達のために」という確かなヴィジョンに向かって、今、目前の難題に精一杯取り組んでいる。
 水平線からタヒチが見えてくる日はそう遠くはない、と思っている。

SV VOL.290 FEBRUARY 2000:僕らの知恵の果てるまで




Back

Copyright Jin Tatsumura Office 2005