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20●「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、今日私はリンゴの木を植える」


1989年から映画「地球(ガイア)交響曲(シンフォニー)」のシリーズを撮り続けて来てもう17年になる。
この間「第一番」から「第五番」まで、5本の映画が完成し、延べ20数名の世界中の人生の達人達に登場願った。
科学者、宗教家、自然保護活動家、冒険家、芸術家等々、その国籍も専門分野も多種多様なのだが、この人々に、インタビューの一番最後に、必ずぶつけてみた質問がある。

「あなたは、地球の未来、人類の未来について楽観的ですか、それとも悲観的ですか?」

その答えは、異口同音に“楽観的”だった。例えその答えが言葉の上では極めて“悲観的”に聞えるものであっても、それを語っている彼らの微笑みにあふれた表情の中に、「この人は決して悲観していない」ということが、言葉の意味を越えて伝わって来た。
彼らはどうしてこれほどまでに“楽観的”になれるのだろうか。

今、私には静かに確信できることがある。
まず、彼らは決してただ脳天気に楽観的なのではない。いや、むしろその逆で、彼らほど絶望的な状況を身を以て体験し、苦しみ、あがきながら通過して来た人はそうざらにはいない。

例えば、「第一番」に登場したアフリカ・ケニアの動物保護活動家、ダフニー・シェルドリック。
彼女は、象牙の密猟者に親を殺された子象を育て、野性に還す活動をもう40年も続けている。その彼女が苦労して育て漸く野性に還すことのできた孤児達が、また
密猟の犠牲になる、という現実を何度も目の前で見ている。
またその密猟者の背後に「動物保護」を訴える政府権力者の黒幕がいることや、内戦に乗じて高性能の武器を密猟者に売り渡す武器商人達がいることも知っている。
一度に数十頭の象を短時間で皆殺しできるような高性能のマシンガンを持ち、ヘリコプターでやってくる密猟者に、旧式の銃しか持たない公園の保護官達が太刀打ちできるはずもない。

こんな絶望的な現実を毎日見続けながら、それでも彼女はきっぱりと言い切る。

「私は地球の未来に“楽観的”です。地球上の全ての生命は、鎖の輪のように繋がって生きています。人間も又その鎖の一部です。目先の欲望に駆られて象を殺すことは、その鎖の輪を断ち切り、結局、自分の手で自分の眼や指を切り落すことになるのです。人間は必ずいつかそのことに気付くはずです。
象は、人間とは異なる、ある高度な“知性”を持っています。その“知性”を駆使して、自然界の超高度な仕組みと調和しながら、人間より遙かに長く、この地球に生き続けて来ました。その象の生き方や“知性”に学ぶことは、“象牙を私有する”という儚い喜びよりは遙かに深く大きな喜びなのです。だからこそ私は、感謝と喜びを持ってこの活動を続けることができるのです。」

今日、メディアを通して届けられる情報だけを見ていると、地球の未来に悲観的になるのもわからなくはない。
しかし、未来に対する悲観や恐怖から生れる環境運動には落し穴がある。さし当ってわかりやすい“敵”を仕立て上げ、それを“攻撃する”という形式で展開する傾向があるからだ。
全ての環境問題は人類という種の本性から生れている。すなわち“敵”は自分の内側にもあるのだ。 恐怖や悲観から生れる攻撃的な運動には、そのことへの痛みが欠落している。今日、多くのメディアや評論家達が悲観論を唱えている。

しかし、ダフニーの言葉は、その対局にある“評論”ではない。悲観的な現実を身をもって体験しているからこそ逆に、楽観的な未来を自ら選びとろうとする“意志”を表明しているのだ。
ダフニーをはじめ、「地球交響曲」の出演者達は皆、人間が地球の未来をコントロールすることなどできないことを身をもって知っている。それでいて地球の未来に関ることのできる“道”があることも知っている。
それは、結果を思い煩うことなく、よりよい未来に向って、自分の場で、自分のできる行動に一歩でも二歩でも踏み出すことだろう。そうすることによって、大きなひとつの生命体である地球の未来は、自ら然ってゆくだろう。
生命はあらかじめ、「できるだけ長く健やかに生き続けたい」という意志を持っている。生命はもともと“楽観的”なのだ。

「たとえ明日世界が終りになろうとも、今日私はリンゴの木を植える。」

『環境会議』 2006年春号


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