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21●ふきのとうのこころ


青森県の聖山・岩木山の中腹にある佐藤初女さんの施設「森のイスキア」は冬の間3メートル近い雪に閉じ込められる。
雪解けが始まるのは、ようやく4月、「地球交響曲第二番」の撮影を始めた最初の日のことだった。

初女さんが施設の裏庭に出て、雪のなかにほんの少しだけ黒土がのぞき始めた場所にしゃがんで何やら始めた。
近づいてみると「ふきのとう」だった。
わずかに消え残る雪の下に、この年初めてのふきのとうが薄緑色の輝きを見せている。初女さんはこのふきのとうを私たち撮影隊に食べさせるためにとりに出たのだ。

初女さんは近くで拾ってきた1本の枯れ枝を使って、ふきのとうの周囲の雪をていねいにとり除いてゆく。カシャッ、カシャッという澄みきったかすかな音が、凛とした雪の静けさのなかに心地よく響き渡ってくる。初女さんの優しくいたわるような手の動きにつれて、氷結した雪の結晶がキラキラと輝きながら散り、その度にふきのとうの薄緑色が鮮やかさを増してゆく。まるでふきのとうが喜んでいるようだ。

ものの10分も続けていただろうか。ようやくふきのとう全体が雪の下から姿を現した時、初女さんは初めて根元にソッと刃物を入れ、抱くようにそのふくよかな掌の中にふきのとうをとり上げた。その仕草は、まるで新しくこの世に生まれ出る赤ちゃんをとり上げる産婆さんのようであった。この姿を見た時、私は初女さんのつくる素朴な食べ物が、なぜ大勢の心やからだを病んだ人々を癒してきたのかがわかったような気がした。

初女さんはふきのとうを単なるめずらしい"食材"とは考えていないのだ。ふきのとうは、自分と同じ心やからだを持った生命であり、もっと言えば、魂を持ったいのちである、と思っている。そのいのちが、私たち人間のいのちを生かす食べ物になってくれる。"料理する"ということは、ひとつのいのちが別のいのちに"移し変わって"ゆくことを手助けする営みなのだ、と思っているのだ。

このことが初女さんのふきのとうのとり方でわかってくる。自分がふきのとうになったつもりで考えてみればわかりやすい。

                        ○
 
   ボクはふきのとうだ。
   もう半年近くも重い雪の下で春が来るのを待っている。
   最近になって急に上からの光が明るさを増し始めた。春が近いのだ。
   ボクのからだのなかには、去年、親から与えられた大きく成長する力が漲っている
   岩木山のブナ林がくれた水や栄養だって充分にある。
   さあ、今から存分に大きくなろう。
   でも、まだチョット雪が重いなあ。
   やっぱり、もう少しお陽さまが暖かくなるまで待たなければダメかなあ。
   あれ!
   急にあたりが明るくなりはじめたぞ。
   カシャッ、カシャッって気持ちいい音楽まで聴こえてくる。
   からだが軽くなって踊りだしたい気分だ。
   そうか!これは、いのちの力を漲らせよ、という神様からの合図なんだ。
   ヨーシッ!

                        ○

こんな喜びの心を抱えたままで、フト気づくとふきのとうは初女さんの掌のなかにいた。その喜びの心がそのまま私たちのいのちになる。

これがもし、ふきのとうを単なる"モノ"として考え、初ものとして市場で高く売ってやろうと思う人がとりに来たらどうだろうか。
多分その人は初女さんのような面倒なとり方はしない。スコップなどの無骨な道具でまわりの雪を勢いよくとり除き、アッという間に乱暴にふきのとうをとってゆくだろう。

その時"ボク"はどう感じるだろうか。せっかく「春が近いんだ」、「これから大きくなっていいんだ」と思っていた喜びの心が、上からふり下ろされてくる無骨なスコップの刃先によって、一瞬のうちに凍りつき、恐怖のどん底に突き落とされてしまうのではないだろうか。
喜びの心を抱いたままで初女さんの手で料理され、私たちのいのちに移り変わってゆくふきのとうと、恐怖に縮み上がったまま単なるモノとして扱われるふきのとうとの間に何かの違いが生まれるのだろうか。

多分、数値化できる栄養価だけを比較すれば、さしたる違いは見えてこないだろう。岩木山のブナ林が育てた同じふきのとうなのだから味だって変わりはないかもしれない。
とり方の違いなど些細なことにすぎない。いや、むしろ初女さんのような面倒なとり方をしていたら、一日では限られた数しか手に入れることができない。
それより、簡単に、素早く、大量にとれるやり方をしたほうが、より多くの人に初もののふきのとうを味わってもらう、ということができるのではないか。
ふきのとうにも心や魂がある、などと言ってもったいぶったとり方をするのは、単にロマンティストのひとりよがりにすぎないのではないか。
そんな声が聴こえてくるような気がする。

しかし、果たして本当にそうだろうか。私には、この違いは何か"決定的"な違いをもたらすような気がする。

確かにこの違いを科学的に、合理的に、数量的に説明することは難しい。しかし、初女さんのつくるお料理そのものが、この違いをはっきりと証明している。
初女さんが夕食に出してくれたふきのとうの煮付けは、たとえ少量を大勢で分け合って食べても、どんな高級料亭でいただくふきのとうよりもおいしかった。ひと口含んだとたんに、からだ中のすべての細胞が喜びの声をあげて歌いだすようなおいしさだった。
ふきのとうに限らず、にんじんでも大根でもなんでもおいしい。初女さんの握った梅干入りのおにぎりを食べて自殺を思いとどまった青年がいた、という噂も絶対に本当だと思えてくる。

初女さんの素朴な料理のおいしさは、ふきのとうにも自分と同じいのちと魂がある、という確信から生まれている。そのいのちと魂を、私たち人間のいのちと魂に移し変えさせていただく、という感謝の気持ちから生まれている。さらに、食べる人のいのちと魂を喜ばせたい、という願いから生まれている。
だから、初女さんの食材に対する眼差しは、まるで自分の子供を見るようにやさしく、繊細で、鋭い。
一つひとつの食材がみなそれぞれの個性を持っていることを知っている。それぞれに独自の心や魂を持っていることを知っている。だから、同じふきのとうでも、時と場合によって料理の仕方が違う。塩を何グラム入れる、とか何分煮ればよいとかが言えないのだ、と言う。それは結局"ふきのとうが教えてくれる"としか言いようがない。
それでいて初女さんの料理は、いつでも、何を食べてもおいしい。おいしい、ということは、食べる人のいのちと魂が喜んでいる、ということだ。だから、病んだ人びとが癒されてゆく。

地球のすべての生命はこんなふうに繋がっている。目に見えないいのちと魂を分かち合っているのだ。
その繋がりへの想像力を失った時、私たち自身の心とからだにどんなことが起こるかを、今私たちは思い知らされているような気がする。

ふきのとうにもやはり魂や心があるのだ。そう思ったほうが世界は素敵になる。
毎日のささやかな食卓が"おいしく"なるからだ。


『チルチンびと』 2000年13号


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