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龍村仁ライブラリー
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エッセイ
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21●ふきのとうのこころ |
初女さんが施設の裏庭に出て、雪のなかにほんの少しだけ黒土がのぞき始めた場所にしゃがんで何やら始めた。 初女さんは近くで拾ってきた1本の枯れ枝を使って、ふきのとうの周囲の雪をていねいにとり除いてゆく。カシャッ、カシャッという澄みきったかすかな音が、凛とした雪の静けさのなかに心地よく響き渡ってくる。初女さんの優しくいたわるような手の動きにつれて、氷結した雪の結晶がキラキラと輝きながら散り、その度にふきのとうの薄緑色が鮮やかさを増してゆく。まるでふきのとうが喜んでいるようだ。 ものの10分も続けていただろうか。ようやくふきのとう全体が雪の下から姿を現した時、初女さんは初めて根元にソッと刃物を入れ、抱くようにそのふくよかな掌の中にふきのとうをとり上げた。その仕草は、まるで新しくこの世に生まれ出る赤ちゃんをとり上げる産婆さんのようであった。この姿を見た時、私は初女さんのつくる素朴な食べ物が、なぜ大勢の心やからだを病んだ人々を癒してきたのかがわかったような気がした。 初女さんはふきのとうを単なるめずらしい"食材"とは考えていないのだ。ふきのとうは、自分と同じ心やからだを持った生命であり、もっと言えば、魂を持ったいのちである、と思っている。そのいのちが、私たち人間のいのちを生かす食べ物になってくれる。"料理する"ということは、ひとつのいのちが別のいのちに"移し変わって"ゆくことを手助けする営みなのだ、と思っているのだ。 このことが初女さんのふきのとうのとり方でわかってくる。自分がふきのとうになったつもりで考えてみればわかりやすい。 ○ ○ こんな喜びの心を抱えたままで、フト気づくとふきのとうは初女さんの掌のなかにいた。その喜びの心がそのまま私たちのいのちになる。 これがもし、ふきのとうを単なる"モノ"として考え、初ものとして市場で高く売ってやろうと思う人がとりに来たらどうだろうか。 その時"ボク"はどう感じるだろうか。せっかく「春が近いんだ」、「これから大きくなっていいんだ」と思っていた喜びの心が、上からふり下ろされてくる無骨なスコップの刃先によって、一瞬のうちに凍りつき、恐怖のどん底に突き落とされてしまうのではないだろうか。 多分、数値化できる栄養価だけを比較すれば、さしたる違いは見えてこないだろう。岩木山のブナ林が育てた同じふきのとうなのだから味だって変わりはないかもしれない。 しかし、果たして本当にそうだろうか。私には、この違いは何か"決定的"な違いをもたらすような気がする。 確かにこの違いを科学的に、合理的に、数量的に説明することは難しい。しかし、初女さんのつくるお料理そのものが、この違いをはっきりと証明している。 初女さんの素朴な料理のおいしさは、ふきのとうにも自分と同じいのちと魂がある、という確信から生まれている。そのいのちと魂を、私たち人間のいのちと魂に移し変えさせていただく、という感謝の気持ちから生まれている。さらに、食べる人のいのちと魂を喜ばせたい、という願いから生まれている。 地球のすべての生命はこんなふうに繋がっている。目に見えないいのちと魂を分かち合っているのだ。 ふきのとうにもやはり魂や心があるのだ。そう思ったほうが世界は素敵になる。 『チルチンびと』 2000年13号 BackCopyright Jin Tatsumura Office 2005 |