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龍村仁ライブラリー
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エッセイ
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26●陣痛ピザ屋 |
東京の杉並区に出産間近のお母さん達から密かに「陣痛ピザ屋」と呼ばれている滅法うまいピザ屋がある。といっても当のピザ屋はそう呼ばれていることなど露知らず、「最近どうしてこんなにお腹の大きな女性客が増えたのだろう?」と訝しがっている。A産院でのお産を控えたお母さん達が、3キロ離れたこのピザ屋に歩いて行き、おいしいピザを食べて歩いて帰ってくると“必ず安産になる”という伝説が生れつつあるのだ。この伝説の生みの親はA産院を主宰するO先生。もとは東大地球化学出身の科学者だったが、自らの出産体験を通して現代のお産のあり方に疑問を抱き、医学部に入りなおして産科医になった女性で、徹底した「自然分娩」を心がけている。帝王切開率30%とも言われる現代のお産環境の中で「今でも98%の女性は自然に産むことができるのです」ときっぱり言い切る。地球交響曲第五番の撮影過程で、私自身の身に起こった“奇跡”のようなできごと、63才の私が新しい生命を授かる、という運命によって、私もこの「陣痛ピザ屋」の伝説を自ら体験することになったのだ。 O先生がこの伝説を生み出した背景には、れっきとした科学的理由がある。出産間際のお母さんが歩くことによって、赤ちゃんの頭が産道に向かって降りてくる。さらに脚のつけ根の筋肉は子宮の筋肉と連動しているので、出産の際に使う筋肉がどんどん活性化する−といった“科学的理由”を説明したからといって、現代のお母さん達が喜んで歩くとは限らない。そこで先生が思いついたのが、かの「陣痛ピザ屋」の伝説なのだ。 ピザ屋に着いた時、すでに妻の陣痛は始まっていた。気が気でない私を尻目に、妻は大型のピザを注文しパクパク食べ始めた。私が心底感動したのは、その妻の表情の変化だった。陣痛が襲ってくると顔をしかめ必死で痛みに耐えている。ところが陣痛が一旦去ると急に顔を輝かせ、本当にオイシソウにピザを食べる。さらに、陣痛の間隔が短くなり、痛みが増せば増すほど逆に、オイシソウな顔の輝きが増してゆくのだ。こんなに美しい女性(ヒト)の表情を見るのは初めてだった。至福の喜びに溢れている。極めつけに、妻はデザートまで注文した。 路上の電信柱にしがみつきながら痛みに耐え、漸く産院に帰りついてわずか2時間後に、美事な女の赤ちゃんが誕生した。「なぜ陣痛の隙間でオイシソウな顔の輝きが増すのか」を後にO先生から教えられ「女にゃ勝てぬ」という実感がさらに強固なものになった。 陣痛が始まると、その痛みが引き金になって母の体内に様々なホルモンが分泌され、痛みに耐える力、愛情を育む力がどんどん増してゆく。さらに女性(ヒト)がもともと持っている味覚・触覚・聴覚などの五感が全開状態となり、それを統合する第六感が最高に鋭敏になる。36億年の生命の繋がりの先で、またひとつの新しい生命をこの世に送り出そうとする大自然の底知れぬ叡智なのだ。だから、オイシイものを食べてその顔の輝きが増すのは自然なことなのだそうだ。西洋医学の進歩の先で「自然分娩」に立ち還ろうとするO先生の営みは、「お産」という分野を越えて、21世紀の人の道に深い示唆を与えている。 デジタルTVガイド・連載『地球のかけら』 2005年3月号 BackCopyright Jin Tatsumura Office 2007 |