「長い間、子どもたちの教育に携わってくる中で、私は何度も"サダコの物語"を子どもたちに語って聴かせてきました。その私が今、現実にサダコの碑の前にいる、ということがとても不思議な気がして・・・」
そう言ったとたん、グッと言葉を詰まらせたナンシー夫人は、溢れ出てくる涙を見せまいとしてカメラから視線をはずした。
数秒間の"沈黙"が流れた。
傍らに座った夫、ラッセル・シュワイカートがチョット戸惑った表情でナンシー夫人の肩をポンポンとやさしく叩いた。
2003年10月「地球交響曲 第五番」の撮影で、「第一番」の出演者だったアポロ9号の元宇宙飛行士ラッセル・シュワイカート夫妻と共に広島の原爆記念碑を訪れたときのことだった。
シュワイカートが広島を訪れるのは「地球交響曲第一番」の撮影以来14年ぶりのこと、この14年間に世界情勢は大きく変わった。ソ連(旧ソビエト連邦)が崩壊し、ベルリンの壁が崩れ、アフガン戦争が起こり、9.11テロ事件が起こり、そしてイラク戦争が始まった。この14年間の心境の変化を聞きたくて、東京で催された第18回世界宇宙飛行士会議に参加したシュワイカートを広島に誘ったのだ。
ちなみにシュワイカートは、この世界宇宙飛行士会議の創設者であり、その活動の一環として、14年前まだ敵対関係にあったソ連の宇宙飛行士達を誘って原爆記念碑を訪れたのだった。だから、今回も主役はあくまでシュワイカート自身であり、同行したナンシー夫人が"主役"にとって代わるとは想像もしていなかった。私はこの「サダコの碑」の前でのインタビューを撮るまで、彼女の経歴やバックグラウンドはまったく知らなかった。彼女はアメリカで長い間、子どもたちの教育問題に携わり、環境問題や平和運動のリーダーとして活躍してきた女性でもあったのだ。
ナンシー夫人のこの"沈黙"は「地球交響曲第五番」の中でも最も感動的で重要なメッセージとなったのだった。
「サダコ」とは、5歳の時に被爆し、12歳で突然白血病を発症、千羽鶴に祈りを込めながらこの世を去った少女のことだ。彼女の物語は本や絵本になって世界中に紹介されている。
理不尽な運命に翻弄されながら必死で明るく生き続けようとした少女、サダコの心の軌跡を、ナンシー夫人はアメリカの子どもたちに語り続けてきていたのだ。そんなことを露ほども知らぬ私は、サダコの碑の前に30分もたたずみ、胸の前に両手を組み合わせたまま、千羽鶴を手に次々に訪れる子どもたちや観光客を見続けているナンシー夫人の姿に、何か尋常ならざる想いを感じ、インタビューのとき、ラスティーの隣に座ってもらったのだ。
長い"沈黙"の後ナンシー夫人はこう言った。
「原爆で亡くなった人の数の多さを想うより、たったひとりの少女の心の軌跡を想う方が、全ての生命(いのち)を想うことに繋がると私は思います」。
生命が数量化されるとき、魂の風化が始まる、と私も思う。
デジタルTVガイド・連載『地球のかけら』 2005年12月号
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