2006年初頭、私は「地球交響曲第六番」を撮り始めている。「第一番」の撮影を開始したのが1989年のことだから、すでに17年間撮り続けていることになるのだが、そういう実感がほとんどない。「第一番」を撮り始めたころには、この作品がシリーズ化するなどと、まったく思っていなかったし、そもそも一つのことを"続ける"という発想が私にはない。だから「第一番」は"第一番"とは称していなかった。
「第六番」を撮り始めようとする今も、それは変わりがない。もともと私は"今"という時を精一杯生きることしかできない人間である。だから、「地球交響曲」が17年間も続き、「第六番」まで撮り始めているというのは、私の意志の力や計画ではない。敢えて言うなら、"誰かにやらされている"、"誰かのおかげでやらさせていただいている"というのが正直な実感なのだ。
とは言え、現実に17年間も続けてくると、あらためて深く気付かせられることがある。それは、「人は誰も死なない」ということだ。
矛盾したことを言うようだが、この17年間に私はたくさんの"死"に遭遇してきた。主な出演者だけでも、「第一番」で一粒の普通の種から1万5千個も実のなるトマトの巨木を育てた植物学者・野澤重雄、「第二番」の素潜り潜水105メートルの世界記録(当時)を持つ"イルカ人間"ジャック・マイヨール、「第三番」のアラスカ在住の写真家・星野道夫ら3人がこの世を去っていった。
この他、なんらかの形で画面に登場してくれた人、音楽を提供してくれた人、上映運動を支えてくれた人等を挙げると十指を下らない。死因も、大往生、不慮の事故、自死、唐突な病など様々だ。
確かに生身で深く付き合ってきた人の"死"は、どんな言葉も慰めにはならないほどに空しく、寂しい。しかし、そうした"死"に遭遇するたびに、私は「人は誰も死なない」という想いを強く持つようになったのだ。
事実、今も上映が繰り返し続いている映画の中で、彼らは活き活きと、明るく生き続けている。生きていたときの姿が写っている、という意味ではなく、彼らの語る言葉や生きざま、目には見えない"気"が、今、この映画を観ている人々に、深い感動と勇気を与え続けているのだ。
最近、映画を撮っている時にはまだ生まれていなかった若者たちや、十数年ぶりに再び観た人達からたくさんの感動の手紙をいただく。その人たちにとっては、登場人物の肉体が今もこの世に在り続けているか否かはあまり重要ではないようだ。ただ、出演者たちの言葉や生きざまが、観客一人ひとりに"今を生きる"勇気と感動を与え続けているのだ。肉体は滅びても、"魂"は永遠に生き続ける、ということだろう。
亡くなった人々の"魂"を生かし続けるか否かは、今も生き続けている私たちの責任でもある。そう思うと、「第六番」に全身全霊を捧げる勇気がフツフツと湧いてくる。
デジタルTVガイド・連載『地球のかけら』 2006年1月号
Copyright Jin Tatsumura Office 2007 |