1970年代の半ば、アメリカのある生物学者がこんな実験をした。全く同じ条件で育てられる三本の同種の植物に、それぞれ、ハードロック、バッハの室内楽、ラヴィ・シャンカールのシタールを聴かせ、その成長ぶりを比較したのだ。結果は驚くべきものだった。ロックには背を向け、バッハには音源の方向に蔓を伸ばしたその植物が、ラヴィ・シャンカールに対しては圧倒的な反応を示し、スピーカーにまつわりついてしまったのだ。
70年代のラヴィ・シャンカールは、ニューエイジの若者達にとって英雄(アイドル)だった。ウッドストックやバングラデシュのコンサートで圧倒的な人気を博し、ビートルズの面々が傾倒し、なかでもジョージ・ハリソンはラヴィの弟子となって一年間インド音楽の修行をした。
私が初めて彼に会ったのもちょうどその頃だった。ラヴィとタブラの名人アラ・ラカ(故人)との初の日本コンサートツアーをプロモートしたのが私の姉(ニューヨーク在住)であり、その姉に頼まれ、休日に京都見物の案内をしたのだ。だから、私にとってラヴィは初めから"英雄"ではなく、ごくふつうの人だった。
彼のシタール演奏を初めて聴いたのもその時だった。その音は、それまで聴いたことのあるどんな音楽とも違っていた。宇宙の彼方に連れ去られるような神秘的な響きとともに、人間的な喜怒哀楽の感情が渦巻く。一曲が20〜30分という長さなのに、その間に魂が地上と天空の間を何度も往還し、アッという間に時が過ぎていた。
こんな音楽が、どこから、どのようにして生まれるのかに強い興味を覚えたが、その頃は深く探求することもなく、彼からプレゼントされた一枚のLPだけが私の音楽のライブラリーの秘蔵の一枚になったのだった。
それから、彼と再会するまでに30年の時が流れた。2003年の暮れ、私が63歳で奇跡のようにひとり娘を授かったちょうどその頃、新聞の片隅に小さな囲み記事を見つけた。84歳になったラヴィ・シャンカールが、21歳になる娘アヌーシュカを伴って久しぶりにヨーロッパツアーを行い、大成功したという記事だった。
その記事には、演奏会のクライマックスで至福の境地に入った二人が、体をくねらせ、歓喜の笑みを湛えながら向かい合っている写真が添えられていた。その写真を見たとたん、私のからだの中に30年前初めて彼の演奏を聴いた時に起こったある感覚がリアルに甦って来た。
こんな音楽が、どこからどのようにして生まれるのか、当時の私にはわからなかった。しかし、今の私には分かるような気がする。
楽譜も教則本もないインド音楽。弟子が師に生活の全てを捧げることによって初めて伝えられる神秘の音。ラヴィはそのようにしてシタールを学んだ。しかし、今の時代では、そのようにして伝統を受け継ぐのは不可能に近い。ラヴィとアヌーシュカが、60歳も年の違う父と娘だったからこそ、それが可能になったのだ。そう思った時、次の作品にはどうしても二人に出てもらいたい、と思った。
まだ、第五番を撮り終えたばかりの頃だった。
デジタルTVガイド・連載『地球のかけら』 2006年7月号
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