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43●スパウトの謎


 その、奇妙な形をした小さな金具が一体、何に使われるものであり、なぜそこにあるのか少年には全く見当もつかなかった。しかし、その金具を手にしたとたん少年の心になぜか突然「ボクはもうこんなニューヨークのような大都会には絶対に住みたくない、いつか必ずここを出てゆく」という想いが湧き起こってきたのだ。その謎の金具は、少年が引越してきたばかりのマンハッタンのアパートのヴェランダの手すりの上に、ただ無雑作に置かれていた。その、名前も用途もわからぬ錆びた金具を見ただけで旅に出る決意をした自分の心の不条理を当時の少年は理解することができなかった。ただ、少年は間もなく、この謎の金具「スパウト」を携えて、海に向かって旅立った。
  彼は長じて、世界的に著名な海洋生物学者となった。この謎の金具が「スパウト」という名であることを知ったのは、それから40年後のことであった。バーモント州の森の中に、自分が一生をここで終えることができると思える家を持った。バーモント州は、メープルシロップの名産地である。「スパウト」は楓(かえで)の木から樹液、すなわちメープルシロップを取り出すための金具だったのだ。
  もちろん今でも、「スパウト」がなぜニューヨーク・マンハッタンのアパートのヴェランダに置かれていたのかは、全くわからない。ただ、今は「スパウト」が、自分の人生をここまで導いたのではないか、と秘かに思っている。
  海洋生物学者、ロジャー・ペイン博士は今71才、ザトウ鯨が人間とほとんど変わらない作曲法で歌をつくり、年々歳々、少しずつ変化させながら歌っていることを、世界で初めて発見した科学者である。
  彼に「地球交響曲 第六番」への出演を依頼したとき、私はこのエピソードのことは知らなかった。バーモント州の自宅を訪れ、撮影の打ち合せを始めたとき、突然、彼の方からこの話を披露してくれたのだ。科学者である彼にとって、この、一種の「運命論」にも聞こえる話は、あまり気楽に他人に話せるものではなかったのだろう。それを自ら私に話し始めたのは多分、彼が打ち合せの直前に、前もって送っておいた「地球交響曲 第三番」を観たからだ。
  「第三番」は撮影開始直前に、出演者である星野道夫が亡くなり、追悼の想いを込めてつくった映画である。星野はかつて、アラスカのジュノーで、ロジャーが長年、ザトウ鯨の調査に使ってきた調査船「オデッセイ号」に乗り込み、たくさんの鯨の写真を撮った。そのことを私はロジャーから聞くまで知らなかった。そして私もまた、1986年、テレビ作品「宇宙船とカヌー」撮影中、ジュノーに停泊中だった「オデッセイ号」にカヌーで立ち寄り数時間を過ごしたことがあった。その頃はまだ星野のこともロジャーのことも全く知らなかった。ロジャーと話したかどうかすらよく覚えていない。
  「第六番」撮影最後の日、ロジャーはこの謎の"鍵"スパウトを私に手渡し、こう言った。
「これは多分、ガイアの未来を開く"鍵"、希望の証しだ。だからジンにプレゼントしたい」。
  スパウトは今、私の編集室に置かれ、「第六番」の仕上がりを見守っている。
 

デジタルTVガイド・連載『地球のかけら』 2006年9月号


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