5/28「ガイア三番」トリヴィア#10(最終話)
#10(最終話)もうひとつの時間
1997年8月
「第三番」の編集作業も終盤にさしかかったある日のことです。
フィルムの編集を終え、さらに字幕、音楽、音入れもすべて終わり、後は最終的な音のバランスの調整をとるのみ、という所まで漕ぎ着けました。
ここに至るまで、数えきれないほどの試行錯誤が繰り返され、またそれを乗り越えて来たはずでした。ところが今、あるシーンをめぐりスタジオでは龍村監督を中心に議論が交わされていました。
そのシーンは、この映画の序盤に姿を現し、そしてさらに終盤で再び現れる一見同じシーンなのですが、二つは何かが違っているのです。なぜなら、その間に描き込まれた様々な物語があるからこそ、再び現れたそのシーンは同一に見えこそすれ明らかに次元は違っているものでした。
議論の矛先は、その事をどう表現するのか…。
そこで慎重に見極められたのが、“ある音を残すか否か”でした。
今思えばそれは、星野さんが事あるごとに思い描いた“悠久の時のながれ”を、その写真や書物でどうやって伝えようとしたのか、という事へのひとつの答えだったのかも知れません。
フリーマン・ダイソンが問うた生と死、ナイノア・トンプソンが求め続けたビジョン。是非、「第三番」の中で“悠久の時のながれ”を感じ取って頂ければと思います。
そこには、目には見えない耳には聞こえない、時が刻まれています。
《人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。》
星野道夫著『長い旅の途上』より
※今現在も、悠久の時は刻まれています。
(ラインプロデューサー・西嶋)