「ガイア三番」トリヴィア

2017年01月

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NEW地球交響曲第三番トリヴィア:スクリーンには見えない制作時のこと

2月2日(木)~28日(火)東京・タバタのシネマ・チュプキ・タバタにて「地球交響曲第三番」が上映されます。
そこで、第八番へ向けての連続上映時に「第三番」の制作過程を掲載し好評だった「第三番」トリヴィアを再掲いたします。

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初めてご覧になる方もいらっしゃると思いますが、きっと今までに多くの方々が色んな思いを持ってこの映画をご覧になったと思います。
そこで、今回の日誌では「第三番」の制作時にまで記憶を遡り、スクリーンには見えない、でもその背景に感じて頂けるかもしれない事を少しだけ綴っていきたいと思います。
(ラインプロデューサー・西嶋)

#1ビル・フラーの静寂
1996年9月
アラスカ・フェアバンクスに降り立った時には、もうすでに初雪が舞っていました。
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#2こだまの返事
今回の撮影では、星野さんがフィールドで愛用していたものをお借りして、それらと共に旅を重ねていきました。
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#3ロード・ムービーの扉
それは、小雨の降る薄暗い日の午後でした。
フェアバンクスから空路シトカへ移動してきた撮影隊は、雨にも濡れ寒さと少しの疲れをまといながら、ひとまず抱えた機材や荷物とともに宿に入りました。
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#4ナイノアのインタビュー
思い返せば1997年2月、ハワイの何処かの海の上にいるナイノアを尋ねる、という所から撮影の旅が始まりました。しかしその旅は、成田空港を発った我々の飛行機がエンジントラブルで引き返すという波乱の幕開けでもありました。そして約半日遅れでハワイに着いた所から、ナイノア探しの旅が始まったのです。
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#5夕日のオルカ
星野さんの訃報を受けたのは、ガイア3番のクランクインをその一週間後にひかえた日の早朝のことでした。
3番のコアになる星野さんの姿なしに、この映画は成立するのか?
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#6オーロラと彗星とワタリガラスと
1997年3月末、ヘール・ボップ彗星が地球に最接近した頃、撮影隊の姿はアラスカ・マッキンレー山の麓に位置するルース氷河にありました。
「子供たちに厳冬期のアラスカを体験して少しでも何かを感じてほしい」という思いで星野さんが提唱したオーロラクラブのキャンプに同行撮影させて頂いたのです。
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#7もっと低く!
「もっと低く!」
ドン・ロスが操縦するセスナに、撮影しながら並走するヘリコプターからのリクエストが無線で伝えられる。
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#8春ですね…
「春ですね…」
星野直子さんは、窓の外にフッと目を向け、そうささやいた。
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#9ワスレナグサ
1996年7月、新宿御苑のカフェテラス
星野さんがカムチャッカへ旅立つ直前、龍村監督と共に後に始まる旅の構想を話し合った一時があります。
それはお互いのイメージを、生身で共有し合う事ができた、最後のひと時でもありました。
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#10(最終話)もうひとつの時間
1997年8月
「第三番」の編集作業も終盤にさしかかったある日のことです。
フィルムの編集を終え、さらに字幕、音楽、音入れもすべて終わり、後は最終的な音のバランスの調整をとるのみ、という所まで漕ぎ着けました。
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2014年05月

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5/28「ガイア三番」トリヴィア#10(最終話)もうひとつの時間

5/28「ガイア三番」トリヴィア#10(最終話)

#10(最終話)もうひとつの時間

1997年8月
「第三番」の編集作業も終盤にさしかかったある日のことです。
フィルムの編集を終え、さらに字幕、音楽、音入れもすべて終わり、後は最終的な音のバランスの調整をとるのみ、という所まで漕ぎ着けました。
ここに至るまで、数えきれないほどの試行錯誤が繰り返され、またそれを乗り越えて来たはずでした。ところが今、あるシーンをめぐりスタジオでは龍村監督を中心に議論が交わされていました。

そのシーンは、この映画の序盤に姿を現し、そしてさらに終盤で再び現れる一見同じシーンなのですが、二つは何かが違っているのです。なぜなら、その間に描き込まれた様々な物語があるからこそ、再び現れたそのシーンは同一に見えこそすれ明らかに次元は違っているものでした。
議論の矛先は、その事をどう表現するのか…。

そこで慎重に見極められたのが、“ある音を残すか否か”でした。

今思えばそれは、星野さんが事あるごとに思い描いた“悠久の時のながれ”を、その写真や書物でどうやって伝えようとしたのか、という事へのひとつの答えだったのかも知れません。
フリーマン・ダイソンが問うた生と死、ナイノア・トンプソンが求め続けたビジョン。是非、「第三番」の中で“悠久の時のながれ”を感じ取って頂ければと思います。
そこには、目には見えない耳には聞こえない、時が刻まれています。

《人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。》 
星野道夫著『長い旅の途上』より

※今現在も、悠久の時は刻まれています。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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05/
27

5/27「ガイア三番」トリヴィア#9ワスレナグサ

5/27「ガイア三番」トリヴィア

#9ワスレナグサ

1996年7月、新宿御苑のカフェテラス
星野さんがカムチャッカへ旅立つ直前、龍村監督と共に後に始まる旅の構想を話し合った一時があります。
それはお互いのイメージを、生身で共有し合う事ができた、最後のひと時でもありました。

その際、一冊の本が星野さんから手渡されました。
それは、表紙の見開きに
“アラスカでお会いしましょう”
と書かれた著書『旅をする木』でした。
私たちはこの言葉に導かれ、一年近く掛けてこの旅をしてきたのかもしれません。そして、この本の最終章に記されている「ワスレナグサ」の章まで、やっとの事で辿り着いたのです。

1997年6月
海に沈み行く太陽の光の中で、強い風にあおられながら凛と咲いているワスレナグサを撮影していました。
この場所は、アラスカではありません。
スケジュール、予算、様々な理由から、今このタイミングで野生のワスレナグサが撮影できる場所を探した結果、ここに行き着いたのです。
それは期せずして、新宿御苑で二人がイメージした、“この旅の終着の地”でもありました。
ここは日本の北、青森です。

当初、この旅の終わりには“青森の三内丸山遺跡に一緒に立っている”という姿が、星野さんにも監督にもうっすらと、でもしっかりと共有されていたモノでした。
それは、ベーリング海を挟んで行き来した数千年前の人類の足跡を辿る旅でもあったのかもしれません。
そして、その道案内役が、ほかでもないワタリガラスだったのです。

我々の四度にわたるアラスカやカナダでの撮影も、常にワタリガラスの気配に誘われ、その影を追っかけてきた日々だった様に思います。
そして知らず知らずのうちに、この地に導かれてきたのです。

この時のワスレナグサのカットで、第三番のクランクアップとなりました。

※あの時、新宿御苑で手渡された『旅をする木』は、その後の撮影の旅の途上で、こつ然とその姿を消しました。生身の本はありませんが、そこに書かれた言葉たちは、未だ旅を続けています。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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05/
26

5/26「ガイア三番」トリヴィア#8春ですね…

5/26「ガイア三番」トリヴィア#8

#8春ですね…

「春ですね…」
星野直子さんは、窓の外にフッと目を向け、そうささやいた。

シシュマレフ村での撮影を終えフェアバンクスに再び戻って来た時には、明らかに季節が前に進んでいるのが感じられました。それはほんの数日間だったのに、星野さんの自宅に続く道にはワイルドフラワーの花が咲き始めようとしていました。

1997年4月7日
今回のアラスカロケの最後に、直子さんにお話を伺わせて頂きました。
まだ、内面的にも色々な意味で整理が着いていない事は想像されましたが、あえて今のお気持ちを聞かせて頂いたのです。
監督の他、最小限のスタッフだけを部屋の中に残し、インタビューは始まりました。

その間、私は翔馬くんのおもりを屋外でする事になりました。 屋根に積もった雪が少しずつ融け、かすかな水音となって聞こえてきます。その音に興味津々の彼は、時折その雪が屋根から滑り落ちてドサッと音をてるのを見て、声をあげてはしゃいでいました。
ささやかですが、まだ幼い彼と二人で春の訪れを一緒に祝うひと時でした。

ちょうど、部屋の中で直子さんのあの一言が発せられたその時、窓の外にいた彼にもその言葉がきっと伝わってきた事でしょう。
その後の彼の人生は、私には知る由もありませんが、ある意味、普通の環境と違った事に思い悩まされた事もあると思います。
そんな彼も、今ではもう何回となく春の訪れを迎えてきた事でしょう。
そしてこれからも、春は訪れてきてくれます。

「春ですね…」

※この2年半ほど前、同じこの場所で池澤夏樹さんと龍村監督が星野道夫さんにインタビューをしています。その時、星野さんはアラスカの春の訪れを愛おしむように語ってくれました。
『それは本当に感動したっていうか…。それまでなんにも川は動いてないんですね、それがボーンていう音がして一斉に川がドーって動き始めるんですね。静から動へ移っていくなんか季節感っていうか、信じられないシーンでしたけども…』

この時に制作された映像作品の一部は、5月31日の「ガイア三番」
上映時に、特別公開させて頂く予定です。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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23

5/23「ガイア三番」トリヴィア#7もっと低く!

5/23「ガイア三番」トリヴィア#7

#7もっと低く!

「もっと低く!」
ドン・ロスが操縦するセスナに、撮影しながら並走するヘリコプターからのリクエストが無線で伝えられる。

北米最高峰の山マッキンレーを抱く雪原を、龍村監督を乗せたドンのセスナと、赤平カメラマンを乗せたヘリが低空で過ぎ去っていきました。
セスナには、そもそも暖房機能はついていません。ヘリの方といえば、防振機能着きのカメラマウントを装着するため扉は外され、外気が直接機内にも吹き込んできます。4月とはいえ、体感はマイナス数十度の世界。数百キロで飛行を続ける二機の撮影は、離陸から3時間にも及びました。

「この速度で、この高度を保つのはもう限界だ、ジン」とドンが監督に告げた時には、その目前に山がそびえ立っていました。ヘリの速度に合わせるため、失速ギリギリのスピードで低空飛行を保っていたドンのセスナは、次の瞬間スロットルを大きくふかして上昇旋回していきました。

“何をそこまで粘って撮影していたのだろう?”
この空撮で、ドンが操縦するセスナの飛行シーンを様々なアングルやシチュエーションでヘリから撮っていたのは想像できます。
が、この最後に撮ったシーンはいったい何をねらっていたのだろうか?
龍村監督は、あえてオールラッシュ(現像したフィルムを始めて見る試写)まで、その事には触れませんでした。

帰国数日後のオールラッシュ、2日間に分けて今回撮影してきたフィルムのすべてを撮影順に試写していきます。フィルムには、ビデオの様に音は入っていません。
無音の試写室で、次々と数日前に起こったシーンが甦っていきました。
そして、あの空撮シーン。
スクリーンに映し出されたのは、飛行するドンのセスナの姿ではありませんでした。
そこには、まるで生き物のように雪原を飛んでいる、セスナの“影”が映し出されていました。
やがてカメラは、“影”から“生身”のセスナへとパーンアップされていきます。

“あぁ、これが撮りたかったのか…”
不思議と腑に落ちる感覚が、そこにはありました。

光と影、この一対の世界のあちらとこちらを撮影し続けてきたこの数ヶ月。
その象徴的なワンシーンとなりました。

※セスナでの撮影中その寒さ故一番困ったのは、トイレ事情。と、撮影を終え帰ってきた監督が一言。 その苦難が、まさか自分に回ってくるとはその時思ってもいませんでした。
それは、シシュマレフ村まで撮影に行った時の事。星野直子さんと翔馬くん、そして撮影隊を乗せた飛行機が村にやって来るシーンを撮るべく、ドンのセスナで先回りする役目を仰せつかり、6時間の飛行をする事に。途中給油のための寄港はあったものの、もうギリギリでした…。
でも、特別な機内食をドンから分けて頂きました。それは、のり巻きおにぎり。
そう、ドンの奥さんは、日本人だったのです!

(ラインプロデューサー・西嶋)

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22

5/22「ガイア三番」トリヴィア#6オーロラと彗星とワタリガラスと

5/22「ガイア三番」トリヴィア#6

#6オーロラと彗星とワタリガラスと

1997年3月末、ヘール・ボップ彗星が地球に最接近した頃、撮影隊の姿はアラスカ・マッキンレー山の麓に位置するルース氷河にありました。
「子供たちに厳冬期のアラスカを体験して少しでも何かを感じてほしい」という思いで星野さんが提唱したオーロラクラブのキャンプに同行撮影させて頂いたのです。
ルース氷河は、星野さん自身も撮影に何度も訪れているポイントであり、子供たちを安全に導ける数少ない場所です。
とはいえ、ここはアラスカ。唯一の交通手段は、山あいの一面雪に覆われた氷河の上に不時着するようにセスナで渡って来るしか方法はありません。

その日はよく晴れ渡り360度見渡す限り真っ白。生き物の気配を全く感じさせない、唯一風の音だけが何かの気配を感じさせてくれるものでした。
昼間、星野さんがここに来たならどんな事をするだろう?
そんな思いで、愛用の品々を我々の手で撮影させて頂きました。
夕方、太陽が山陰に近づくにつれ、西の方から山々の影が駆け足でこちらに向かって来るのが分かりました。そしてあっという間に我々のキャンプ地を白から黒色に染め上げていきます。その白と黒のボーダーラインが私たちを通過するや否や、身震いするほど身体の芯から冷やされていくのが分かりました。

その夜、ヘール・ボップ彗星の撮影に挑みました。長時間露光のコマ撮り撮影のため、1カットの撮影に時間を要します。数時間ねばって撮れるのは2〜3分程度。その間、カメラのそばでちゃんとシャッターが切られているかどうか見張ってなければなりません。徐々に我々も凍り付いていきます。
そんな時の事でした。東の空に、もやもやとした何かが動いているのです。
オーロラです。
見る見るうちに色が現れ、こちらに近付いてきます。でも今は、彗星の撮影中、すぐにはカメラを移動できません。
そこで勝手に願ったのは、オーロラさんに彗星の方に来てもらう事でした。 その願いがかなったか否か?それは、三番の冒頭をご覧下さい。

そして、明くる朝にも思わぬ出来事が!
日の出とともにテントの外の様子を見に出た赤平カメラマン。いきなり外から息をころしたような声で、でも気持ちだけは大声で叫んでいます。
「カメラ、カメラ!」
あわてて、カメラを抱えて赤平さんの元へ。
昨日、星野さんならこのルース氷河でいったいどんな風に過すだろう?
というイメージを持ってカメラを向けたその場所に、今朝、思わぬ光景がありました。

“どうして、こんな事があり得るのだろう?”
よければ、少しそんな事を想像しながら3番をご覧頂ければ、また何か違ったものが見えてくるかもしれません。

※赤平さんの声で、あわてたテントの中にいた撮影助手さん。急いだのでしょう、何を思ったのかフィルムのマガジン(ケース)を開けてしまったのです。それは、昨夜苦労して撮った彗星の撮影済フィルムでした。きっと、身体の芯から凍り付いていたのかも知れません。気持ちも凍り付いた一瞬でした。
が、帰国後すぐに現像されたフィルムには、皆の安堵の色が映っていました!

次にヘール・ボップ彗星が戻ってくるのは、4530年ごろだと考えられているそうです。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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5/21「ガイア三番」トリヴィア#5夕日のオルカ

5/21「ガイア三番」トリヴィア#5

#5夕日のオルカ

星野さんの訃報を受けたのは、ガイア3番のクランクインをその一週間後にひかえた日の早朝のことでした。
3番のコアになる星野さんの姿なしに、この映画は成立するのか?
フリーマン・ダイソンの撮影を目前に控え、龍村監督の中でも物理的な要因だけではない、様々な葛藤が渦巻いている事は容易に想像されました。
そして導き出されたのが、“少しでも前に進む”という事でした。
その時の心境は「龍村仁・出演者を語る」の第三巻:心に描く/イマジン編で詳しく語られています。

ともあれ我々は、予定通り成田を発ちカナダ・ブリティシュコロンビアのハンソン島を目指しました。長年にわたりオルカの研究を続けるポール・スポング博士の住むこの島は、フリーマンと息子ジョージにとっても記念すべき場所だったからです。
詳細は『宇宙船とカヌー』(ヤマケイ文庫)に描かれています。

今思い返すと、その道程で目にしていた様々な景色が、スローモーションのように感じられていたのを覚えています。
飛行機から見えた霧に煙るブリテッシュコロンビアの沿岸水路に点在する島々、スポング博士の小舟で海原に揉まれながら垣間みた波間に飛ぶ水しぶき、なぜか時がゆっくりと過ぎていく、そんな感じがしていました。

ある日、ハンソン島から更に先の無人島にまで足を伸ばし、撮影に行った時の事でした。
そこはその昔、ネイティブの人々が住んでいたという島でした。今では覆いつくされた草木の向こうに、人間が手を加えたであろうと思われる住居の痕跡がわずかに見受けられる程です。それも言われなければ見過ごしてしまう様なかすかなものでした。
でも、フッとした時に“何かにみられている”そんな感覚がよぎります。

後に、星野さんの足跡を辿りカナダ北部のクイーンシャーロットにまで撮影に行く事になるのですが、そこでも同じ感覚がよぎったのを覚えています。ネイティブのハイダ族が暮らしたその土地も今は無人となり、自然のまま朽ち果てていこうとするトーテムが並ぶクイーンシャーロットは、それ自体が世界遺産登録の場所ですが、ここはそんな記憶にすら残らない場所だったのかも知れません。ただ、同じ感覚を覚えたのだけは確かです。
まるで、どこかでブラックベアーが我々を見ている様な…

そんな感覚を身体に残したまま、一路ハンソン島に向け帰路についていました。
夕日が西の空から、オレンジ色の光を凪いだ海に映していました。
静かに静かに進む船の上で、ある時、急に電話の音が鳴り響いたのです。
それは、スタッフの一人が持っていた海外使用の携帯電話の呼び出し音でした。
今のように通信環境が整っていない当時、この電話が鳴ると言う事は、何か急な知らせだと言う事はすぐに分かりました。
龍村監督の手に携帯が渡され、ある訃報が伝えられました。
ガイア黎明期からの大切な仲間が、この世を去ったという知らせでした。
周りに人の気配すら感じないこんな静かな海の上で、何千キロも離れた場所から一瞬にして人の死を知らせる連絡が入る。
この意味の答えを探すように、あてどなく夕日に包まれた海を見ていたその時、船の舳先に一筋の水煙が夕陽に一瞬輝き、そしてすぐ消えていきました。

一頭のオルカが潮を吹いたのです。
それからしばらくの間、そのオルカの潮吹きの音と背びれが水面に上りまた沈んでいく、その単調な繰り返しが続いたように思います。
まるで、我々に寄り添ってくれているかの様に…
実際にはいったいどれ程の時間だったのでしょう?
それはまるでスローモーションの世界に飛び込んだ様な、この旅の始めから感じていた時の刻まれ方の答えだった様な気がします。
フリーマンが語るタイムスケールの話、宇宙が持つ心の話、その科学的な根拠が数式ではなく、感覚として伝わってきた一瞬でした。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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5/20「ガイア三番」トリヴィア#4ナイノアのインタビュー

5/20「ガイア三番」トリヴィア#4

素晴らしいニュースが飛び込んできました。
去る5月17日に、あのホクレア号が世界一周の航海に向けハワイ・オアフ島を出港したそうです。総航海距離は約8万キロ、26カ国、65の港に寄港し、3年後の2017年にハワイに帰還するそうです。旅の成功と安全を祈らずにはおられません。
そのプレスカンファレンスでナイノア・トンプソンは「機は熟した!」と、まず語ったそうです。
(詳細はポリネシア航海協会まで)

#4いナイノアのインタビュー

思い返せば1997年2月、ハワイの何処かの海の上にいるナイノアを尋ねる、という所から撮影の旅が始まりました。しかしその旅は、成田空港を発った我々の飛行機がエンジントラブルで引き返すという波乱の幕開けでもありました。そして約半日遅れでハワイに着いた所から、ナイノア探しの旅が始まったのです。

この時の様子は、DVDシリーズ「龍村仁・出演者を語る」の第一巻:見えない糸/シンクロニシティー編で詳しく語られています。

ナイノア自身、自分だけがフュチャーされると言う事をあまり好まず、常に周りとの関係に重きをおく、そんな素顔を持った人でした。それは人間関係だけをさすのではなく、この大自然との関わりを含めた、彼独自の感覚。決して表に立たず、いつも最後まで何かを見守っている様な…。
なので、最初の頃はカメラを向けるとスッとフレームを避けるように行ってしまったりという事もありました。さらに、南の島特有のハワイアンタイム!?約束した時間に現れたためしがありません。

ある時こんな事がありました。前もって伝えておいた場所で我々が待っていると、めずらしく約束の時間通りに向こうの方からナイノアが歩いてきたのです。手を振ると、ナイノアも応えてくれます。が、そのまま我々の前を素通りして行くではありませんか?彼の姿はブッシュの中に消えて行ってしまいました。しばらくして、姿を表したナイノアに我々の視線が集中すると、彼はこう言いました。
「みんな、ここで何をしているの?」
そうです、彼はこの時間にここで落ち合う約束を、すっかり失念していたのです。想像するに、ただ用を足しに行く途中に我々に会った、という事なのでしょう…。
自然まかせ、まさに“いナイノア・トンプソン”。
今となっては微笑ましい思い出です。

そんな彼に、撮影も終盤にさしかかった頃、ある大切な内容のインタビューを撮る機会が訪れました。ナイノアにとっても撮る側の我々も、そのセンシティブな部分に触れることの意味する何かは、おいそれと聞いたり話したりできる事ではないと十分理解しています。
そこで、龍村監督はこんな事を考えていました。
“カメラもスタッフもいない状態でのインタビュー”
“でも、どうやって…?”
その答えは、よければ映画の中で探してみて下さい。
そこには、彼が本当に心からリラックスできる聖地で、ナイノアの口からつむぎ出された言葉が映っています。

※インタビューの語源には「お互いに(Inter)見る(View)」という意味があるそうです。その存在を消したカメラに納められていたこの後ろ姿には、まさにナイノアと監督とが対峙し合った時間が映されていました。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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5/19「ガイア三番」トリヴィア#3ロード・ムービーの扉

5/19「ガイア三番」トリヴィア#3
#3ロード・ムービーの扉

それは、小雨の降る薄暗い日の午後でした。
フェアバンクスから空路シトカへ移動してきた撮影隊は、雨にも濡れ寒さと少しの疲れをまといながら、ひとまず抱えた機材や荷物とともに宿に入りました。
たしか、その宿の名前は「ポトラッチ・イン」。
少し怪しげな雰囲気を漂わせる古びたモーテルでした。
ここで、あのボブ・サムに会う約束だけを取り付け、はるばるやってきました。

いよいよ「ワタリガラスの伝説」の世界に足を踏み入れた、そんな感じがしていました。
当時まだ月刊誌に連載中だった『森と氷河と鯨』の全切り抜きを握りしめ、その未完になってしまった次のページを知るために、ここまでやってきたのです。
その冒頭に描かれている星野さんとボブの出会いのシーンを思い起こしながら、いつ現れるかも分からないボブの姿を、小さなフロントで待ち続けていました。
でもその時の訪れは、意外なほどあっけなくやってくるものです。
ほぼ時間通り、目深にベースボールキャップをかぶった男がフロントのガラス扉を開けて入ってきました。
それが、あのボブでした。

龍村監督との短い言葉のやり取りで、我々が何をしにきたのか、そして先の分からぬこの旅がどこに向かおうとしているのかを、お互いが分かち合った様なひと時でした。
そう言えばこの撮影の旅では、我々スタッフ同士で交わされる言葉も、いつになく少なくなっていた様な気がします。
初めて辿り着いた場所で、初めて見聞きするものをフィルムに納めていく、そしてまたその繰り返し。
きっと旅のその途上に立っている時は、その先に続く道の事を想像はすれど、分かりもしていないものなのでしょう。
それがロード・ムービーなのかも知れません。

※スタッフの一人が夜中に極度の金縛りにあい、やっとの思いで私の部屋の電話に助けを求めてきました。しかし私自身も体調を崩し寝込んでいる最中、何もできません。すぐさま龍村監督に助けを求めたとか…
おそるべし、「ポトラッチ・イン」

(ラインプロデューサー・西嶋)

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5/16「ガイア三番」トリヴィア#2こだまの返事

5/16「ガイア三番」トリヴィア#2

#2こだまの返事

今回の撮影では、星野さんがフィールドで愛用していたものをお借りして、それらと共に旅を重ねていきました。

・コーヒーマグ
・毛糸の帽子
・ランタン
・湯沸かしや煮炊きに使うバーナー
・テント
 等々

手に取ると、どれも大切に使い込まれてきたその証しがしっかりと伝わって来るものばかりです。 これらのグッズは、映画の中でも度々登場しています。
まるで今しがた、そこに星野さんがいたかの様に…

それは、ドッグマッシャーのメアリー・シールズの撮影の時でした。
メアリーに雪原を何度か犬ぞりで走ってもらい、その撮影も一段落。
犬たちは走ったばかりの荒い呼吸をしながら、暑いと言わんばかりに顔を雪の中に突っ込んでしばしのブレイクをとっていました。
おもむろに龍村監督、この雪原で何かの気配を感じたのでしょうか?
手にしていた星野さん愛用の毛糸の帽子を、近くの枯木に何気に引っ掛けたのでした。
その動きを察した赤平カメラマンがカメラを向けてそれを撮影しようとした、その時でした。
雪に顔を埋めていた犬達が一斉に立ち上がり、遠吠えを始めたのです。 何とも人の心を切なくさせる響が雪原を駆け抜け、こだまとなって帰ってきます。 メアリーもスタッフも、ただただ黙って枯木にかけられた帽子の方向に目を向けていました。
でも、帽子を見ているという感じではなく、帽子のその背後に広がる薄ぼんやりとしたもっと大きな風景を見ていた様な気がします。

こだまに乗って何か返事が返ってくる様な、そんな気にとらわれていました。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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5/15「ガイア三番」トリヴィア#1ビル・フラーの静寂

5/15「ガイア三番」トリヴィア#1

来る5月31日(土)に「第三番」が明治神宮の参集殿で上映されます。

初めてご覧になる方もいらっしゃると思いますが、きっと今までに多くの方々が色んな思いを持ってこの映画をご覧になったと思います。
そこで、今回の日誌では「第三番」の制作時にまで記憶を遡り、スクリーンには見えない、でもその背景に感じて頂けるかもしれない事を少しだけ綴っていきたいと思います。

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#1ビル・フラーの静寂

1996年9月

アラスカ・フェアバンクスに降り立った時には、もうすでに初雪が舞っていました。
つい1週間ほど前、亡き星野さんを送るメモリアル・サービスがこの地で行われた時には、澄み渡った青空と萌えるような紅葉があたりを覆っていたのがウソのようです。そしてその夜に初めて見たオーロラが今でも忘れられません。
この数日で、足音も無く、でも駆け足で冬がやってきていました。
そんな中、静かにガイアの撮影も始まりました。
今回会う方々は、メモリアル・サービスで初めて会った方々ばかりです。
でも、星野さんの本の中では何度も会っている、そして今この時を我々と同じ思いで迎えている方々ばかりでした。

まず最初にお会いしたのは、ビル・フラーでした。
70歳を過ぎても水道を持たないその生活は、窓の外を舞うかすかな雪や、木の葉のわずかな動きも感じる様な、静かな佇まいでした。

ゆっくりとそして一言一言、愛おしむ様に言葉を発するビル。
その言葉と言葉の間に散りばめられた、一瞬の静寂。
その「静寂」が、なんとフィルムにも映っていたのです。

それは、後にフィルムを現像して初めて分かった事なのですが、
そこにはカメラが回っている音が、かすかに聞こえているのです。
正確には、静寂の音ではなくカメラの音です。 でもその音は、ビルが発する大切な言葉の中に宿る「静謐さ」故の何かとしか思えませんでした。

静寂の中、カメラは自然とビルの手元にパーンしていきます。
そのレンズの先には、
「幸せは その中に悲しみを内包しています」
という、ビルの言葉がありました。

※ 映画の中でビルが歌う「You are my Sunshine」のハモりパートを歌っているのは、龍村監督です!共に歌う二人の目には、一粒の輝くものがありました。

2007年、ビル・フラーはこの世を去りました。

(ラインプロデューサー・西嶋)

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